(5―3)北斎の富岳三十六景 社会批判の画 (鑑賞)(後編)(18(完))

北斎が『富岳三十六景』作品中に盛り込んださまざまな嘘・冗談・謎・卓越した工夫などのアハahaを箇条書きにしていく。

 

(46)江都駿河町三井見世略図(こうとするがちょうみついみせりゃくず)

 

江都駿河町は現在の東京都中央区日本橋室町にあった。

駿河町の通りを挟んで,立派な三井本店(越後屋:のちの三越)が二棟向き合って並んでいる。右の店の屋根に職人が三人登って瓦修理をしている。空に凧が舞う。通りの奥には富士がそびえる(図1)。

1810江都駿河町三井見世略圖
         図1

1(もっとも指摘したい箇所): よく指摘されていることだが,画家の視点は一階の庇あたりにあって上を向いているため,画面には店の前の通りとその賑わいがない。

この視点の置き方がすごい。時は1830年代,所は日本の江戸なのだ。19世紀前半には西欧ではスペインのゴヤ,フランスのアングル・ドラクロアなどが活躍していたが,このような種類の斬新な構図の画を描いた画家を私は知らない。画に人々が期待する光景がない。それにも関わらず,画が一般庶民に売れた。つまり江戸庶民がこの画をよしとしたのがとりわけすごい。

 

建物が精緻に描かれていて,そこにいくつもの嘘が潜んでいる。単なる間違いにしては数が多すぎて,しかも手が込み過ぎている。細部にこだわる北斎が精魂込めて工夫しているというより,何かに憑りつかれたようにやっている。指摘しておかねばならない。

 

屋根について:

2: 画面右に入母屋造りの屋根がある。しかし,実際の屋根は本作品と違い,90度回転した位置で富士の見える通りを向いていた(図2:大江戸博物館にある三井本店の模型)。

1840三井本店と番屋2
                             図2: 三井本店の右には番屋と木戸がある

3: 屋根の角度が急すぎる(図3の⑨⑩,図2と比較)。それに加えて,画家の視点からすると屋根の左右の角度(図3の⑨⑩)は同じのはずだが,右(⑨)が急だ。

1820江都駿河町三井見世略図番号
         図3

4: 右屋根の白黒の斑線(赤線⑧,⑫)が屋根のてっぺんの大棟から軒下までついている。これは丸瓦をつないだ風切丸(カザキリマル)(瓦屋根各部の名称は統一されていない)というもので,左の風切丸(⑧)が右の風切丸(⑫)より内側にあるように見える。

5: 風切丸の瓦どうしは漆喰で上下をつながれている。白い漆喰の間隔は,左の風切丸(⑧)が右(⑫)より長い。ほぼ同じであるはずだ。

6: 同様に,右家屋一階庇にある風切丸の漆喰の間隔(㉙)が左家屋一階庇のものより短い(㊸)。ほぼ同じであるはずだ。

7: 屋根瓦が屋根の下地の板(野地板)に漆喰で固定されているのだが,先端部を見ると⑥には漆喰がなく,㉑にはある。

8: 右の家の庇を垂木(化粧垂木)(㉓)が支えている。その間隔が不揃いだ。

9: 右屋根の庇が左下がりなのに,垂木(⑳)の向きが右下がりになっている。これはどちらも同じ向きになっているもので,実際,左屋根の垂木(㊹)の向きは庇と同じ向きになっている。

10: 切妻の屋根を縁取る板(⑯:破風板)・破風板の厚み(⑰)・破風板と壁の間の隙間(軒天)(⑱)・壁に破風板と平行についた板(⑲)がある。軒天の最下端は下の屋根瓦に対して斜めになるはずが不自然な形で結合している。

11: 右の屋根の庇(㉝)が左の屋根の庇(㊴)より大きい。同じだったに違いない。

12: 屋根ふき職人が作業している。二人の動作が本シリーズの『本所立川』にある材木屋の職人と似ている。ただし,『本所立川』の場合,⑤に当たる職人は本作品と全く同じ位置と動作なのだが,⑦に当たる職人は右ではなく左にいて同じ動作で受け取ろうとしている。おかしい。

13: ⑤の職人のねじり鉢巻きの位置がおかしい。どうすればこのように結べるのかわからない。

14: 右の一階庇が直線的なのに,左の庇は曲線を描いている。他作品に比べて本作品には直線が多いのだが,左庇は逆らっている。

15: 左右屋根の瓦はどちらも右下がりにふかれている。画家の視点は通り中央にあるのだから,この場合左屋根の瓦は左下がりになる。

 

壁と窓:

16: 屋根の破風にある縦の柱のいくつかが傾いでいる(⑭)。

17: ⑬⑮の部位では右の横棒が短い。

18 : 右の家屋の二階の横木(㉗)が立体的には正確に描かれていない。

19 : ㉘の部位は上の柱と下の柱がずれている。

20: 右家二階の窓格子の間隔が,左右の窓で異なる(㉔)。左窓の格子の間隔が広い。

21: ㉚の格子の間隔が突然広くなる。

 

看板:

22: 右の店では看板を立てる柱(㉛,㊶㊷)が二階の屋根の下に伸びている。この柱は一階庇の端ギリギリの所に設置されるものだ。すると,本作品では一階庇の方が二階屋根より小さくて内側にあることになる。実際には一階庇は階屋根と同じか大きかった(図2の模型)。

23: 看板の上に小さな屋根がかかっている(図3の㉜㊵)。中央看板の屋根が手前(㉜)より奥(㉞)が高くなっている。左看板でも手前(㊵)より奥(㊳)が高く,これは逆だ。

24: 看板の柱をみると,柱の下側が二本線で描写されているのに,上側は一本線で平面的になっている(㉛と㊶㊷)。

25: 看板の屋根の構造が異なる。中央看板の屋根には垂木がない(㉞)が,左の屋根(㊳)にはある。

26: 左看板が正面に対して向いている角度が右看板の角度より不自然に大きい。

27: 左看板柱がわずかに前傾している。

28: 右端の看板の屋根が他のように瓦ぶき(㉜㊵)になっていない(㉒)。天下の三井本店なのだから,統一されていただろう。

29: その右看板だが,支えとなる柱が描かれていない(㉕)。他の看板のようすから,柱は母屋の庇の傍か下についているはず。すると,この画では看板の左側に柱があるべきなのだが,それがない。もしこの看板の柱が右端のさらに右にあるため描かれていないとすると,右看板は日本橋通りを隔てた店の物になってしまう。そうだとすれば,あまりに斬新だ。

30: 右看板(㉕)の下端が上向きになっている。これは下向きになっていなければならない。

 

その他:

31: 右側の店の前に黄色の不揃いな高さをした塀がある(㉖)。三井本店に不釣り合いだが,木戸番屋の塀か門だろう(図2の模型)。木戸番屋は町内で管理していたので,三井本店が恥になるような体裁の造りにはしなかったはずだ。『江戸名所図会 駿河町三井呉服店』や広重の『東都名所駿河町の図』などを見ると,りっぱな塀になっている。

32: 実際には,塀(㉖)に平行して位置する店の側面には,客が出入りする出入り間口(客が出入りする所で商家では暖簾がかかっていたがあった。それにしては,どう見ても塀と出入り間口の間隔が狭すぎる。

33: 三井本店前の通りをまっすぐ行くと江戸城城壁に突き当たる。江戸城までは数百メートルはあったことを考えると,石垣(㊲)は途方もなく高いことになる。

34: 城壁の上に白壁の土塀がないのもおかしい(㊱)。また,他の浮世絵師が描いた江戸城には櫓が見えるのだが,この画にはない。

35: 江戸城の建物(㉟)が上から見下ろされているように描かれているのがおかしい。

36: 凧に本シリーズ版元“”西村屋永壽の「壽」の字がある(③)。三井本店の上に,西村屋の凧があって,三井を下に見ている。たとえ「壽」の字の凧が一般的なものだったとしても,本シリーズの作品にあっては,必ずや西村屋を連想させるだろう。

37: 凧が高く上がっているのでいい風があるのだ。それにしては凧のしっぽが風になびいていない(①)。だらりと垂れている。

38: 凧を張る糸が不完全で,凧の下端がとまっていない(②)。凧は不安定になる。

39: 空が画面を三等分した中段上段に渡り,広い。空が中段の下まで降りている作品は少ない。

40: 写実風な三井の店舗から遠のくにしたがって,江戸城,すやり霞,富士(④)と形式化(抽象化でもある)が進行する。

 

作品中に多数の細かな疑問点・間違いがあり,しかもかなり注意しなければわからないようなものだらけだ。そして,細かいからこそ,その間違いは画面構成上の美的工夫に帰することができない。それら間違いは画面になくてもいいのものだからだ。したがって,これらが北斎によって意図的に仕込まれたものと考えるしかない。北斎は本店の建物に多数の欠陥を入れることで豪商三井をからかっているのではないか。

作品としては,三角と平行四辺形と富士の曲線とを組み合わせて安定した構図を取る。その構図の中で,急な屋根の傾きとそこで作業する職人たちの動きから,緊張感と躍動感が表現される。また,手前に木造の建物を写実風に精緻に描くのだが,遠くなるほどオブジェが形式化している。

安定感と緊張感・躍動感,精緻な写実風と形式化といった対立する表現が混在し,さらには細かな多数の問題点が詰め込まれた画なのだが,全体的印象としては,斬新な構図の割に落ち着いたものになっている。これが北斎の力量なのだろう。

 

 

(前掲36)東都浅艸本願寺(とうとあさくさほんがんじ)

 

本作については『北斎 煌めく嘘 異界を描く 大入道霞(13』で述べ,「社会批判」の項目の所で再度取り上がるとしていた。改めて紹介し直したい。

 

東都浅艸本願寺は江戸浅草にあった本願寺。巨大屋根で有名だった。

巨大な屋根に職人がのっている。大屋根の左下に町家が密集している。上にはすやり霞がかかる(図4)。

1910東都浅草本願寺
         図4

 

図5は『江戸名所図会』の浅草本願寺である。巨大な屋根をもつ本堂があって広い敷地は人々で賑わっていた。

1937江戸名所図絵浅草本願寺_edited
                      図5

1(もっとも指摘したい点):  :入母屋造りの屋根には,合掌形になった三角部位(破風)をつくる板(破風板)があり,その下に飾りが施されている。飾り板中央に線(図6の⑱)があり,線の下に蕪型の膨らみ(⑲)がある。膨らみを懸魚(ゲギョ)という。懸魚はもともと魚の形をしたもので,水に関連することから建物を火災から守るまじないだったが,日本では魚形ではなく,蕪型をしているものが多い。

1920東都浅草本願寺番号新改

            図6

懸魚を挟む飾り板に透かし彫りがされて,後方の青色の壁が見える。この青色の形が手をついた女の裸体(図7の㉜)になっている。懸魚と飾り板の厚みの部位が帯状になって,女体を二つ形作る。女体には顔(㉝),乳房(㊱),尻(㉟)と足(㊲)が見て取れる。作画の視点は絶妙な位置にあって,これを動かすと女体の形が悪くなる。

1930東都浅草本願寺懸魚番号
                       図7

上記『江都駿河町三井見世略図』の三井本店の懸魚(図3の⑪参照)と比べると,この懸魚が三井の懸魚のような通常のものとは違うことがわかる。

 本作品のものには懸魚周辺に飾りが多い。

 懸魚の飾り板の縁どりは,通常のものとは微妙に違って女体を形作る。

 

さらに見ていくと,

2: 女体の尻の上に横向きの人面がある(㊵)。

3: 蕪の中央にあるのは花模様(㊳)らしい。通常は葉の模様なのだが,葉にはみえない。全体としては裸体の女が花を囲んでいるのだから,この花は花芯を直に連想させる。そうであれば,懸魚の飾りの皺模様(㊴)が納得できる。

かなり淫猥だ。

 

この画は,エロティックであり,巨大寺院の僧侶の女犯(ニョボン)をからかうものであり,嘘に満ちた虚構であり(四十六景すべてがそうだが),面白い。

 

建物について:

4: 本作品の本願寺の屋根が巨大で急過ぎる(図5)。そこを瓦職人たち(図6の⑬⑯)が登山しているかのようだ。上の職人が伸ばす手ぬぐいに下の職人がつかまって引っ張ってもらっているのがおかしい(⑮)。

5: 屋根の上には巨大な鬼瓦(⑫)が乗っている。実際にこのような瓦があれば,屋根は潰れる。

6: 鬼瓦の左右にある巨大な波状の飾りの瓦(荒目流し(⑦))が左右対称になっていない。

7: 左の荒目流しの上に2人職人がのっている。彼らがのっている瓦の色が白い(⑧)。しかし,荒目流しの端の瓦では濃い藍色(③)になっている。変だ。

8: 鬼瓦に線が入っている(⑪)。線の下側は見えるが上側が見えない。つまり下から見上げる視点で描かれている。他の部位は上から見下ろす視点で描かれていて変だ。

9(新指摘箇所): 鬼瓦の下に青い⑭の構造がある。これが何かわからない。

10: 鬼瓦の位置から瓦が3列せり出して葺かれている(⑨)。通常は1列のはずだ(図5)。

11: 破風板(⑤⑩の下部)を見ると,右の板の上には2層の帯状の線があるが左には1層しかない(⑤⑩)。

12: 懸魚を挟む板に飾りの透かし彫り細工がされ,後方の青色の壁が見えるが,左右の飾りの高さが異なる(⑳)。

13: 懸魚の中央の線(⑱)だが,上側が太く下に行くにつれて細くなっている。

14(新指摘箇所): 乳房をつくる部位の底辺の長さをみると,右(㉑)が左(㉔)より短い。これは右からの視点なので右が長くなるはず。

15(新指摘箇所): 肘木(ヒジキ:屋根の重さを柱に伝えて支える構造)の左右(㉒㉓)の長さが異なる

 

その他にもおかしな部位がある:

16: すやり霞が閉じた目・突き出た顎・鼻を持ち,大入道の顔になっている(図6の㉗㉘)。

17: 画面中段左に丸太で櫓が組まれている(㉚㉛)。この櫓が何であるか,井戸掘りの櫓説と火の見櫓説と意見が分かれているようだ。櫓は立体性に乏しく,平面的に組まれている。丸太は細くて長く,加重に耐えられそうにない。縦と斜めの丸太もあるが,下に繋がっていないもの(㉚㉛)もあって,補強にはならない。崩れないのが不思議だ。だから空想上の櫓であって現実の物ではない。すくなくても火の見櫓ではない。火の見櫓は重要な施設であり,『深川万年橋』にあるようにしっかりした構造物だった。

18: 櫓の後方に民家が立ち並んでいる。あまりにも密な上に左右方向に家が並んでいて,これでは縦方向の道をつくることができない(㉙)(図5参照)。 

19: 凧が上がっているが,屋根の上に職人と比較して大き過ぎる。

20: 凧の尻尾の数が多い(①)。どうなのだろう。

21: 鑑賞者が霞を大入道として見ることができれば,中央の霞は手に凧糸を持っている(㉖)ことになる。それがおもしろい。

22: 屋根の傾斜は『御厩川岸より両国橋夕陽見』の両国橋の曲線とほぼ一致する(図8)。

1940東都浅草本願寺両国橋渡し船
                      図8

23: 富士の稜線は『御厩川岸より両国橋夕陽見』の渡し船の曲線とほぼ一致する(図8)。

24: 富士の右稜線下部がなだらかな曲線ではなく曲がっている(④)。これは右下に他の山の稜線がくっついているからだろう。稜線を大切にする北斎がなぜこんな稜線にしたのか疑問だ。

 

『富嶽三十六景』四十六作品すべてに,たくさんの虚構が盛り込まれている。本作品では中にエロティックな女体が隠されていているなど,その虚構が甚だしい。それは本願寺という巨大仏教宗派の堕落をからかうものではないだろうか。

それにしても,藍色と精緻な線描と北斎の愛した曲率の曲線で,大伽藍,江戸の街並み,躍動する人物,荘厳な富士の見守りが見事に描かれており,その中にエロティシズムを潜ませ,さらに社会批判を入れて江戸っ子に留飲を下げさせたであろうから凄い。

 

 

以上見てきたように,『富岳三十六景』全46作品には,北斎の全身全霊をかけた,一度限りの,神がかり的な創意工夫と技巧がある。作品群としてこれ以上のものはいかに北斎でもできない。彼は「努力精進すれば年を重ねるほど技量が向上する」というようなことを言っているのだが,それは彼の望みであって,我々はうのみにしてはいけない。技は少し上がったかもしれないが,芸術家として人々を感動させる全体的力量は年をとっても上がってはいない。

ところで,神がかり的な創意工夫とは何かといえば,それはソクラテスの論の受け売りであって,私が満足に説明はできるものではない。プラトン哲学も最終的には直感的に信じるかどうかだから,私の姿勢としてはあまり問題ないだろう。

 

46作品について書くのに思ったより時間がかかった。

                                     完

 

(5―2)北斎の富岳三十六景 社会批判の画 (鑑賞)(中編)

北斎が『富岳三十六景』作品中に盛り込んださまざまな嘘・冗談・謎・卓越した工夫などのアハahaを箇条書きにしていく。


(45) 従千住花街眺望ノ富士(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)

 

千住は現在の東京都足立区千住に当たる。

日本橋から日光街道を下って一つ目の宿場である千住を大名行列が通る。田んぼの向こうには花街の娼家が並ぶ(図1)。


1410従千住花街眺望ノ不二
          図1

本作品の中景に板塀で囲まれた集落があるが,集落が江戸四宿(江戸から各街道一番目の宿場で非公認の岡場所=私娼街)の一つの千住だという説と,江戸の新吉原であるという説があって意見が分かれている。私からすれば早く決めてくれである。素人意見ではあるが,中央に広大な田んぼが広がっていて,これを浅草田圃とみると,集落はそこに隣接する新吉原になる。他にも新吉原説をとる理由を挙げると,田んぼと日光街道の間に青いすやり霞が漂うことから街道と集落の間の距離は遠く,集落が街道沿いにあった千住宿とは考えにくいこと,千住の花街は街道沿いにあるので細長く分布し,客を呼び込むためには板塀で囲まれていなかっただろうということ,手前の家屋は藁ぶきに対して遠景集落の家は瓦ぶきか板ぶきであること,千住の花街はあくまで非公認の遊興施設であって遠景の集落のような立派なものではなかっただろうということ等だ。

また,「従千住花街眺望ノ富士」という題名の「従」の字は「より」や「から」と読むので,題名は千住の花街からのぞむ富士という意味になる。千住花街から見ているという題意からすれば花街は手前の街道沿いにあるのであって,花街から望む富士の途中にある集落ではない。

 

 

本作品には,東北の大名行列をからかっているところがある:

1: 大名行列は江戸の出入りに最も気を配り格式を重んじていた。その格式ある行列が遊郭を背景にしている設定がそもそも意地悪・冗談の類だろう。

2: 人物の顔が前向き・右向き・左向き・上向きとばらばらであり,ここにも格式を感じられない。

3: 鉄砲隊の3人(図2の㉓㉗)が背中を見せて新吉原(㉝)の方を向いている。彼らの未練たっぷりな姿も情けない。


1420従千住花街眺望の不二番号
               図2

4: 槍の刀身を柄につける部位が千段巻きだ。㉘の千段巻きがほかの槍より短い。槍隊の槍は大名の武威を象徴するものだから,長さは揃っていたと思われる。

5: 画面右に空色の羽織をはおった人物が二人いる。羽織の背に商家の屋号としか見えない山に田の字が書かれている(⑰)。大名の家臣が着るようなものではないだろう。

6: しかも二人(⑰)が着ている羽織は,武士が旅着とする打裂羽織(ブッサキバオリ:後ろが二つに割れていて刀が収まりやすい)ではない。だから刀が羽織の裾を持ち上げている。

7: 右端で長持ちを担ぐ人足はの字が背中に入った半纏(⑯)をまとっている。は『富嶽三十六景』シリーズの版元である西村屋壽堂の「壽」の字だ。半纏は大名行列の供が着るようなものとは違う。

8: ⑯の足軽と彼が担ぐ長持ちの間隔を見ると,狭くて足が長持ちに当たるようだ。とても歩き難いに違いない。

9: 行列の中で,同じ足格好の者が3組ある(⑳,㉒と㉔,㉓と㉗)。これも北斎のからかいか。

10: 右端の茶屋の前で人足が顔(⑭)を正面に向けている。しかし,足先(⑲)は右を向いて歩いているかのようだ。どう見ても⑭の人足のものではない。北斎の冗談だ。

 

57は,大名行列が雇われ人足で成り立っていたことを示すものだろう。大名家は経費節減のため人足派遣業者から人足を雇っていた。彼らには江戸に出入りする行列を大人数で立派なものに見せるための人数合わせの意味があった。⑳の二人は二本差しだから侍身分であるが,その二人が侍らしくない出で立ちをしている。

 

右の小屋にはおかしなところがいくつもある:

11: 右の小屋に町人が二人いる。右端の男の顔が柱で二分されている(⑫)。

12: 小屋の屋根に垂木(タルキ)が描かれているが,斜めに傾いている(⑨と⑩)。特に⑩の垂木は軒先だけにあって奥の屋根本体につながっているようには見えない。左の家の垂木が傾いていないのと対照的だ。

13: 大棟(⑧)が屋根先端まで達していない(⑦)。

14: 屋根が歪んでいるのが大棟の線(⑧)と屋根の梁の線(⑪)を比べるとわかる。

15: 看板に「千客万来」とある(⑬)が「万来」が曲がっている。

 

他にもおかしなところがある:

16: 左にある家は飯盛り女を置く私娼の宿なのだろう。その構造が変だ。突き出した部分(㉙)が狭すぎる。これでは部屋の空間とはならない。

17: 稲ニオ(⑮)が右の小屋のそばにあるが,本来たくさんあるはずの稲ニオが刈田そのものには一つもない。

18: どの解説書にも二人の農婦(③)が休んでいるとある。しかし,二人の女は本当に農婦なのだろうか。二人とも白くきれいな顔をしているだけではない。足も白く細い。これは日ごろ野良仕事に従事しているような足ではない。たしかに左の女は刺し子の野良着を着ているようだし,彼女たちの左には農作業に使われる籠と箕(ミ: ざるのようなもので選別に使用されていた。現在使われていないが昭和にはまだ使われていた)(②)らしきものが置かれている。しかし,右の女は普通の着物を着て帯を前に結んでいる。これは通常遊女の結び方だろう。一般女性が結ぶこともあったが,邪魔になるから野良仕事向きの結び方ではない。だから,二人を遊女と考える方が妥当ではないのか。

彼女たちと大名行列との間にすやり雲(㊲)があるから距離は遠く離れている。行列の供回りの連中が未練たっぷりに彼女たちやその先の新吉原の方向を見やっている。ここにも武家に対する皮肉を感じる。

19: 箕(②)を使うような作業が稲ニオもない刈田にあるのか疑問だ。箕は単なる飾りなのだろう。

20: 中景の新吉原(㉝)だが,塀の向こうに立派な家が並び,家には蔵がある(㉞)。歌川広重の『東都名所 新吉原五丁目弥生花盛全図』を見ると,白壁の蔵は娼家ごとにはない。北斎の適当なアレンジなのではないか。

21: 新吉原の塀に向かって畦道(㉜)がついている。しかし,畦道が塀の前の藪に入ると,その先がどこにつながっているのかわからなくなる。それに,塀にはくぐり戸らしきものもない。この畦道は通常のものとは違う。

 

画を上中下段に分けてみたとき,上中段の世界が後に述べる『相州江の嶌』の世界と酷似している。

 

22: 富士と緑の山並みが連なって背景となる。山並みは新吉原の木々にスムーズに移行する(㉟)。逆に見ると,新吉原の木々が富士の前山につながり,さらに富士につながる。新吉原が富士に庇護されている設定なのか。

23(新指摘箇所): 両作品の背景がよく似ている(図3)。図3の(上図)は『従千住花街眺望ノ富士』,(中央図)は『相州江の嶌』の背景を線描きしたものだ。(下図)では,江の嶌の背景に合うように『従千住花街眺望ノ富士』のパーツを移動させ,横の大きさを合わせてある。『従千住花街眺望ノ富士』背景の変化形(下図)は『相州江の嶌』と背景とほぼ一致する。

1440江の島と従千住江の嶌一致改
               図3

24(新指摘箇所): 本作品の青霞(⑤⑥㊲)が海を連想させる。

25(新指摘箇所): 左右から迫ると㊲の青霞が中央の田んぼを縁取る。縁取られた田んぼは『相州江の嶌』の砂州のようだ。砂州と同じように田の中央には道がついている。構図としてはよく似ている。砂州に見立てると,刈田に稲ニオがない理由(前記17)がわかる。砂州には稲ニオはないからだ。

26(新指摘箇所): 『富岳三十六景』の他の作品と比べたとき,新吉原の家並の描写が『相州江の嶌』の家屋と,木造・繊細な線・落ち着いた色彩・瀟洒な雰囲気などの点でよく似ている。

27(新指摘箇所): 状況的には二つの作品は同じと見ることができるだろう。すなわち,『相州江の嶌』では神域(別世界)の江の島が,砂州を介して本土側の飯盛り女がいる藤沢宿とつながっている。『従千住花街眺望ノ富士』では新吉原(夢の別世界)が青いすやり霞でつくられた回廊を介して岡場所千住につながっている。これが偶然の一致であるとは思えない。

28: この上中段は下段と切り離しても画として成立する。配色・繊細な描写・富士の荘厳さがすばらしい。下段を入れるとして,大名行列を廃した形で通りのようすを描写しても十分に旅情的である。でも北斎は大名行列を入れたのだ。

 

北斎の見事な意匠がある:

29: 藪(㊱)がグラデーションを用いて見事に描かれている。

30: 鉄砲隊が藍色の羽織を着ている。柄は波のようだ。柄はおそろいのはずが,少しずつ異なる(㉕)。見事なデザインだ。

31: パターンのくり返しが形を変えて幾通りも施されている。茶色の袋掛けをした鉄砲の太線が角度を変えて波打っている。鉄砲隊の後には槍隊がくる。槍も波打つ。新吉原の白壁の蔵と母屋もパターンを繰り返している。

32: 女(③)が若くてきれいな顔をしている。顔に3つの点を打っただけの北斎の表現力にはあきれるしかない。

33: 青色のすやり霞が珍しい(⑤⑥㊲)。しかも,霞の下は暗く着色されている(⑤㊲)から,影のつもりだろう。すやり霞に影とはとてもユニークだ。

34: 富士の描写がユニークで美しい。白い雪と紫がかった灰色の山肌の富士がキヌガサタケの模様(図4)のように見える(東海道江尻田子の浦略圖』駿州片倉茶園ノ富士参照)。しかし,冠雪のようすは美しいがありえない。

1430キヌガサタケ兵庫県立人と自然博物館_e
                 図4

 

吉原・江の嶌ともに非日常世界である。新吉原を江の嶌とみたてるのだから,江の嶌の神官・住職は怒るだろう。その異常な世界に大名行列を入れたのだ。大名も怒るのではないか?

 

 

前掲(2) 相州江の嶌(そうしゅうえのしま)

本作については『北斎 煌めく嘘(北斎先生やり過ぎです)(1)』で述べたのだが,その後いくつかおかしな箇所を見つけたので,改めて紹介し直したい。

 

相州江の嶌は現在の神奈川県藤沢市にある江の島にあたる。

干潮時,緑に包まれた江の島に砂洲がつながって,そこを参拝客が歩いて渡っている。水と若葉の煌めく様子が点描で描かれていて,美しく旅情あふれる光景だ(図5)。

1510相州江の島
     図5

ほとんどの解説はこの画を北斎らしからぬ「写実的な」「誇張がない」「奇抜でない」おだやかなものとしているが,そうではない。とても北斎らしい奇抜な画だ。

 

権威への反発:

1: 本作品中,江の島の入り口に大きな緑色の青銅製燈籠が2つ立っている(図6の⑰)。しかし,当時江の島入り口に立っていたのは,1821年に再建された青銅製鳥居だ。『富嶽三十六景』が版行されたのが1831年から1834年のことだから,ここに燈籠のあるはずがない。解説書では北斎が間違えたのか,あえて鳥居を取り外した(?)としている。前述来の北斎の行状からみてそうとは思えない。鳥居を描いても画の構成美を大きく損なうことはないから,あえて北斎は描き変えたのだ。

1520相州江の嶌番号
     図6

2(新指摘箇所): その灯篭の位置がおかしい。向かって左灯篭(⑰)が右のものと比べ階段(⑯)から離れてずれている。

 

古い歴史をもち人々の信仰を集めていた江の島神社の鳥居を燈籠に変えるのは,当時の常識から見ても不敬にあたるだろう。そこに,私は北斎の諧謔精神というより反骨の気概を感じる。

 

江の島へと砂洲(⑮)が伸びて繋がっているのだが,砂洲と海との境目は入り組み,白波を立てている(⑬)。これでは砂浜というより磯のようだ。歌川広重の『相州江之嶋 弁財天参詣群衆之図』では,この箇所が直線状の砂洲に描かれている(図7)。明治初期に洋画家の高橋由一が「江の島図」を何枚か写実的に描いている。高橋画と比べると広重画には崖と丘の高さなどに誇張があるが,両者はだいたい似ている。広重画に誇張はあるにせよ,これは他の浮世絵師の画でも同じようなもので,江の島のようすを北斎画よりは正しく表しているものと考えられる。

1530相州江の嶌弁財天開帳参拝群衆歌川広重東博一部
          図7 歌川広重の『相州江之嶋 弁財天参詣群衆之図』一部

北斎画(図5)と広重画(図7)を比べると,北斎画の異常さがよくわかる:

3: 北斎は故意に砂洲を磯にして描いている。

4(新指摘箇所): 広重画には北斎画にある右階段(図6の⑭)がない。実際なかっただろう。そして,左階段下には本来の鳥居がある。

5(新指摘箇所): 北斎画では石垣の高さが階段の左右で異なる(⑦⑲)が広重画では同じだ。同様に,海岸沿い左右の人家の高さが北斎画は異なり,広重画では同じだ。広重が正しい。

6(新指摘箇所): 広重画では江の島の右端は高い崖になっているが,北斎画では低い磯の岩(⑨)になっている。これは高橋の「江の島図」から見ても現在の江の島の地形から見ても広重が正しい。

7(新指摘箇所): 広重画では人家の背後は高い丘になっているが,北斎画では低い丘(③)になっている。これも高橋の図と現在の江の島の地形から見て広重が正しい。

8(新指摘箇所): 広重画では左の海岸沿いに人家が並ぶが,北斎画では人家が途絶えている(⑳)。広重が正しい。

9(新指摘箇所): 北斎画では江の島左端の海岸近くに植物が生えている(⑳)。マングローブが関東地方にあるわけがなく,広重画にはそのようなものはない。

 

10(もっとも指摘したい箇所): 北斎は本作品でこれまでにない趣向を凝らしている。ふつう画家は(特に北斎は)対象を誇張して表現するが,北斎は上述67のように江の島を過少描写している。まったく写実的ではない。あらためて,北斎はなんでもする御仁なのだと感心するしかない。

 

その他;

11: 最前列左端の建物(①)だが,屋根の線がくの字の曲がらずに直線になっている。後方の②の建物が遠近法に従って描かれているのと比べると変だ。

12(新指摘箇所): ①の隣の建物に白い縦長の長方形の部位(⑱)がある。形からすると戸口なのだが,ついている場所が変だ。

13: 最前列右端の建物(⑧)は屋根の最上部に大棟がついていない。左階段左右の建物にはついているので変だ。

14(新指摘箇所): 密集した集落の屋根の種類が多様だ。左階段左右の商店の屋根は板ぶきで青い屋根は瓦だろう。それに茅ぶきの屋根がある。屋根の諸様式を盛り込んだ感がある。

15: 三重塔(現在はない)より高い木が後方にある。木が丘の上にあったとしても巨大過ぎる。北斎は他の作品でもしばしば巨木を遠方に描いている。

16(新指摘箇所): 人物に比べると階段(⑯)の段差が大きすぎる。

17: 画面右に舟があるが,4本の線が見える。垂直に立っているのが帆柱であり,あとの3本は帆綱になる。2本は前後に張られていて,1本が左舷についている。実際には,帆綱は前後の2本あるだけで,左右にはないはずだ。帆柱の左右に帆綱があると,邪魔になって帆の操作がうまくできないからだ。北斎自身,『武陽佃島』のは舟には2本の綱しかつけていない。

18: 波しぶきが点描で表現されている(⑬)。島の周りの磯でも磯のような砂洲でも途切れなく波しぶきが立っている。磯で波しぶきが立つのは波が寄せる時で,引くときには波しぶきはあまり立たないはず。すると,本作品の江の島には打ち寄せる波だけしかないことになる。

19(新指摘箇所): 前掲(44)従千住花街眺望ノ富士』で述べたように,北斎は江の島と新吉原を同一視するように描いている。『相州江の嶌』の方が『従千住花街眺望ノ富士』より早く描かれているが,『富岳三十六景』全体の構想自体は長期間に渡っていたから,同一視も北斎の構想に初めからあったと考えられる。

 

技法・工夫がすばらしい:

20 点描の波が美しい。しぶきを上げるところは藍色の点で,手前の海は空色の地に白の点を打っている。斬新だ。

21: また,点描は丘に生える木の葉の描写にもみられる。美しい効果がある。

22: 後方にある木々の描き方が絶妙だ。薄い黄緑の地に暗緑色の点描をしている。点の大きさ,形,短い太めの線(これは北斎も学んだ中国のお手本画集『芥子園画伝』にある),濃淡などを描き分けて,何種類かの広葉樹・松・杉を表現している。点描による木々の葉の煌めきが美しい。

23: すやり霞が下部に漂っている。版画の刷りによっては,霞は薄茶色をしていてそこに細かな点が打たれており,砂浜のようにみえる。他の作品には見られない新しい意匠だ。すやり霞はまるで描かれなかった砂洲のようだ。

24(新指摘箇所): 『下目黒』で述べたが,富士は画中の人物をすべて見守っている。本作品で富士の視界から外れているのは左階段(⑯)上の2人だけだ。この2人も1分前には富士に見守られていた。

 

大嘘と小嘘をつきながら,北斎は斬新な趣向を試み,面白味を加えてはいても美しい印象的な画に仕上げている。

 

 

(5)北斎の富岳三十六景 社会批判の画 (鑑賞)(前編) 


浮世絵師の喜多川歌麿には社会批判の画が多い(『謎解き歌麿「深川の雪」(鑑賞)』『歌麿三部作:深川の雪・吉原の花・品川の月の鑑賞1/2』参照)。なかでも
秀吉の「醍醐の花見」を描いた『太閤五妻洛東遊観之図(タイコウゴサイラクトウユウカンノズ)』は将軍家斉の行状を揶揄するものとして幕府の怒りを買い,歌麿には実刑が下っている。

新しもの好きな北斎は社会批判の画をあまり描かなかったが(あるいは知られていないが),『富嶽三十六景』の中には北斎らしい諧謔の効いた社会批判の作品がいくつかあるので紹介する。

 

 

43下目黒(しもめぐろ)

 

江戸郊外下目黒の農村風景が描かれている。一般にはのどかな田園風景と評されている(図1)が,そうだろうか?

1610下目黒
          図1

 

1: 二人の鷹匠(図2の⑥)が腕に鷹(⑤)をのせて,将軍家の御鷹場のあった下目黒に鷹の調教に来ている。その横に一人の農夫が跪いている。幕府御家人の鷹匠は,平役で役高100俵三人扶持ほどというから,30俵二人扶持の町方同心より高給取りであるものの,旗本とは比べものにならない。鷹狩は将軍の権威を象徴するものであったから,その権威を笠に着る鷹匠たちが多かったという。百姓たちに無理を言ったり,鷹の調教で田畑を荒らしたりして,百姓たちから忌み嫌われていたらしい。本作品では鷹匠の一人(⑥)がもう一人の鷹匠に話しかけている。不愉快なことがあったのだろうか,彼は眉を吊り上げ口の前に手をやっている。その前に農夫が跪いている。江戸後期になると大名行列が通っても庶民は道端によって見送っただけだったから,下級武士と話をするとき農夫が正座することは普通にはなかっただろう。この農夫も身を低くすれば足りたのではないかと想像する。農夫が土下座しているのは難題をつきつけられているのであって,のどかではなく緊張した状況なのだ。

1620下目黒番号1
          図2

2(もっとも指摘したい箇所): 鷹匠たちの腰元を見ると太刀らしきものがない。腰の物は少なくても他の作品に見られるようなくっきりした線で描かれた太刀とは違う(例えば,後述『東海道品川御殿山ノ不二』の武士参照)。⑥の鷹匠の刀の柄は細く,直線ではなく歪んでいる(⑧)。もう一人の鷹匠の打裂羽織(ブッサキバオリ:武家の外出用の羽織で,帯刀用に背中側が半分縫い合わせていない)からは棒きれのようなものが突き出ている()。現在の復刻版では,その棒を太刀の柄や鞘であるかのように鮮明な線で描いている。ということは現在の彫師もおかしいと感じて修正しているわけだ。さらに,御家人ならば二本差しなのだが,⑥の鷹匠の腰には太刀の柄はあるが脇差の柄がない。さすがに北斎が描いていないものを描き足すわけにはいかないから,復刻版にも脇差はない。いかにも奇妙だ。北斎は細部にこだわる画家だ。したがって,これは間違いや描き損じではない。作為なのだ。では,北斎が鷹匠に棒を腰に差させ,二本差しにさせなかった理由は何だったのか。北斎善人説をとると説明できないが,これは太刀を持たない,つまり武士の魂を持たぬ者という皮肉かと思う。

こう見てくると,この画はのどかな田園風景を描いたものではない。むしろ,農民を困らせる,武士の魂を失くした鷹匠の悪行を江戸庶民に公に告発するものとみることができ,そうであれば北斎にしては数少ない社会派の画となる。

3: 鷹匠は左腕を高く上げて鷹が見えるようにしている。権威の象徴の鷹(⑥)を見せるためだろうが,この姿勢を続けるのはかなりきつい。

4: 鷹匠に供がいない。

5: 松の木が白雲を背景にして鮮やかに浮かび上がっているのがユニークだ。他の作品を見ると,樹木の枝ぶりや葉の付き方を写実的に克明に描写するものや斬新だが形式的にデザイン化したもの等があって多様だ。この松も多様な中の一つである。

6: 松の枝()が少ないのがおかしいが,木は上品に描かれていて,ここが将軍家御鷹場近隣であることをうかがわせる。それが逆に鷹匠の悪行も際立たせている。

7: 田らしきものがない。積み藁(⑦⑯稲ニオ)があるのは麦の藁だろう。畑は麦畑か野菜畑なのか,きれいな畝が立っていて,農民の勤労がうかがわれる。いっそう鷹匠の傲慢が際立つ。

 

8: 右上段に丘があり,丘の上に緑濃い畑(④)がある。畑は帽子のように丘にかかっている。しかし,傾斜がとても急な所にも畝がある。そこでは農作業はできない。

9: 畑の畝と畝の間隔が狭すぎる(⑩)。農作業に適さないばかりでなく,野菜・作物が育つ空間が不足する。

10: 富士(②)が小さく,しかも丘の道の隙間からのぞいている。これが歌川広重のいう「北斎は画の面白さを重視したので,富士を副次的に扱った作品が多い」ということなのだろう(『信州諏訪湖』参照)。しかし,副次的かというと違う。富士が鷹匠の行為をしっかりと見ているからだ。

『富嶽三十六景』中には多数の人物が描かれているが,屋外にいる場合,人物の大半は自分から目を上げれば小さな富士でも見ることができる位置にいる。富士が見えない所にいる者はとても少ないのは驚きでもある(いたとしても道を移動中の人物であったりして,建物の影に入っているが,すぐに影から出てきそうな構図がいくつかある)。本作品でもそれがいえる。彼らが富士を見ることができるのなら,富士も彼らを漏らさずに見ているわけだ。これは広重の言うような付け足しの富士ではない。庶民の守護神としての富士だといえよう。

11: 右端の農家の屋根(⑮)の大棟(⑱)には2か所藁(⑰)がかかっている。この構造は大棟を抑えて風雨から守るものだ。他の茅葺屋根では大棟の両端にあるのだが,この農家では左にないのが変だ。

12: 大棟が屋根の端まで伸びていない(⑮⑳等)のが変だ。大棟は三角屋根の茅を抑えて保護するはたらきをするので,端も覆っていなければならない。

13: 中央の農家の屋根が巨大で,一階の下まで達している(⑲)。まるで復元された竪穴式住居のようだ。

14: 画面左右で遠近法の扱いが異なる。右半分では,鷹匠とその後方の稲ニオは適当な大きさだ。しかし,左半分では,遠くにいる農夫(①)が大き過ぎるし,3軒ある農家の中で一番手前の家が一番小さく描かれている等,遠近法を無視している。

15: 農婦が鋤(⑫)を持っているが,鋤の刃が足に当たりそうだ。こんな持ち方はしない。

16: その農婦は左手に笠(⑭)を持っている。笠は正円ではないが,画面中央にある。他の作品にも共通する配置だ。

17: (⑯)の稲ニオの下の部位がスカスカになっている。下ほど密になるだろう。このような稲ニオはない。

18: ⑬の道は⑮の家に突き当たって行き止まりになる。それでは,鷹匠らは農家の私道にいることになる。変だ。

19: 本作品は松と丘陵が曲線を描き,曲線の底に富士があるという樹下波上の富士構図になる(『尾州富士見原』『東都駿臺』参照)。

 

 

(44) 東海道品川御殿山ノ富士(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)

 

品川御殿山は江戸の花見の名所だった。桜色の山桜が海の青と空の青と地面の黄色を背色にして咲き誇る。たくさんの行楽客が押し寄せている(図3)。

1710東海道品川御殿山ノ不二
          図3

 

ここでも北斎は武士のだらしなさを揶揄している。

1: 御殿山に登ってきた連中の中に武士が二人(図2の⑧⑨)いる。品川の岡場所で遊んできたのか,かなり酔っているらしく,扇をかざして踊り歩きしている。武士は建前上武家諸法度にある群飲佚遊(グンインイツユウ:理由なく群れ集まり、酒に溺れ、遊びほうけるが禁止されていたから,本作品の武士は庶民からみて昼間からみっともない酔態をさらす者として非難される対象となるだろう。

1720東海道品川御殿山の不二番号
          図4

2: 武士二人の後ろにいるの人物は羽織を前後逆に着ている。ということは幇間(ホウカン:太鼓持ち)か。二人の遊びの続きに付き合っているのだろう。幇間をつけての花見見物はやり過ぎだ。

 

3: 品川の東に海があり,富士(①)は西にある。だから,御殿場山から品川の海と富士を同時に見ることはできない。これは北斎がよく行った空間をゆがめる手法だ。

4: 左の小高い場所にゴザと緋毛氈(⑲)を敷いて酒盛りをする連中(⑰⑱)がいるのだが,その場所が盛り上がっていて,人も荷物も転げ落ちそうだ。

5: その中の⑱の人物が,『青山円座松』で他人の酒盛りを物欲しそうに見ていた髭面男に似ている。

6: 花見客相手の小屋が立ち並んでいる。青や灰色の屋根は板張りのようだ。その小屋が小さい(⑧)。右の小屋の前に風呂敷包みを背負う小僧(⑥)がいるが,小僧でも頭を下げないと小屋に入れないほどだ。

7: 小僧(⑥)の風呂敷には『富嶽三十六景』版元西村屋永壽山に巴の屋号がある。

8: 『富嶽三十六景』中13作品に立ち姿の女性が出てくる。そのうち5人が赤子か子どもを背負っている。本作品にも子ども(⑪)を背負う母親が描かれている。北斎の好む対象なのだろう。

9: 父親に肩車される子どももいる。子どもは二人とも眠っている。二人は背丈がほぼ同じで,同じ色合の着物を着ている。双子なのかもしれない。

10: ⑬の人物の顔が被り物に覆われていて,あやしい。

11: その⑬の人物が肩車された子どもの着物に手を伸ばして触ろうとしている。あやしい。

12: 画面中央部に正円の藍色傘(⑭)がある。

13: 中央にある3本の桜の木(㉒)には花が樹冠にしかついていないのが変だ。両端の桜のように下側にも花がついていたはずだ。

14: 左端の桜の幹が傾きすぎている(⑯)。

15: 桜の木々の幹が右に向かって湾曲していること,花の塊が弧を描いてつながるように配置されていること,花の塊を樹冠にだけ付け,中央を開けて富士が収まるスペースをつくっていること等に,北斎の作為を見ることができる。桜花の塊を結ぶと大波Great waveの形になる(図5)。大波の下に富士が来るので,樹下波上の富士構図(前述『下目黒』の19になる。黒線は岩の輪郭をなぞったものだが,黒線も波に見立てることができるだろう。

1730品川御殿山桜波
                               図5

16: 画面中央に黄緑色の丘(⑮)がある。この丘が『富岳百景』の『山また山』の山々に似ている。

17:  その丘(⑮)だが,ジグザグの曲がり具合(㉑)と15の“樹下波上の富士”構図をあわせた特徴があり,他作品と共通する(『隅田川関屋の里』『駿州江尻』『神奈川沖波裏』)。

18: 人物配置に規則性があって,頭部が直線上に6列並ぶ(図6)。それらの直線は西村屋の丁稚か右隣の女の頭部を通るため,両人の頭でそれぞれ4本の線が交差している。

1750東海道品川御殿山ノ不二人の線_e
                               図6

19: 画面中段右に3軒青い瓦屋根に家が並んでいる。その屋根の大きさが,右が大きく(③),左に行くほど小さくなる。家の前の塀(④)の大きさは距離によって変化していないので変だ。

20: ②の藪が他の作品の藪に共通した形をとり,犬のモンスターのようだ。

21: ⑤の松が独自な様式になっている。

 

 

(前掲(2)) 隅田川関屋の里(すみだがわせきやのさと)

 

本作については『北斎 煌めく嘘(北斎先生やり過ぎです)(1)』で述べたのだが,その後いくつもおかしな箇所を見つけたので,もう一度紹介し直したい。

 

関谷の里は現在の東京都足立区千住にあった。

田んぼの中の道を三人の武士が馬を疾駆させている(図7)。馬の足音が聞こえてくるようだ。

1810隅田川関屋の里
          図7

 

武士のようすがおかしい:

1: 二人の武士が着ている打裂羽織(図8の⑱㉔)が派手過ぎる。北斎はオランダ商館長の依頼で何枚か肉筆画を描いている。ヨーロッパに渡ったそれら作品の中に『武士の乗馬』という作品があり,『隅田川関屋の里』とほぼ同じ乗馬のようすが描かれている。主持ちの武士は通常,『武士の乗馬』(図9)にあるような地味な服装をしていたはずだ。

1820隅田川関屋の里番号新
              図

 

1840北斎乗馬仏国立図書館80
                         図9:北斎作『武士の乗馬』一部(フランス国立図書館蔵)

本作品では,中央の武士(㉔)はまるで女物のような派手な服装をしており,国元に急を知らせる大事な役目を持つ使者とは思えない出で立ちだ。

2: その中央の武士の赤い打裂羽織(㉔)を見ると,後が四つに裂けて翻っているように見える(㉓)。しかし,打裂羽織の場合,後の切れ込みは一か所だけであり,通常なら最後尾の武士の羽織のように二つに裂ける(④)。だから,これはあり得ない。

3(新指摘箇所): 最後尾の武士の打裂羽織が翻って,裏地が見える(④)。これが裏地の紋様に見えなく,継ぎ接ぎのように見える。

4: 画面に正円を入れるためだろうか,武士たちは笠を無理な形に被っている(⑲㉙)。馬の尻尾(㉒)や黄色の帯(⑪:尾袋)のなびき方からみて,馬の走る速さはかなりのものだ。これでは笠は風に飛ばされてしまう。『武士の乗馬』では,武士は笠をしっかり頭の真上に被っている。

5(新指摘箇所): 笠の角度からすると,武士たちは左斜め前下を向いて馬を走らせている。正面前を向かずに馬を疾駆させるのは非常に危険だ。『武士の乗馬』では,武士はしっかり正面前下を向いている。

 

馬がおかしい:

6(改訂): 最後尾の馬は,目つき鋭く凛としているのだが,尻と左右の後肢のつき方がおかしい(⑮⑯)馬の尻に注目していただきたい。尻の切れ目(⑩)があって,切れ目は鞍から横に伸びる青色の紐(⑫)で遮られている。紐の下には後肢に続く線(⑬)があるが,上部の尻の線(⑩)とうまくつながらない。段差状に尻がずれているかのようだ。だから後肢の左右(⑮⑯)がどちらかわからなくなる。『武士の乗馬』では,馬の尻はそれほどまでには捩じれておらず,左右の肢がどちらかわかる。

7(改訂): 疾駆する馬の四本の肢がすべて宙に浮いている(⑭⑰20㉑)。前述のように本作品の馬では後肢が左右どちらか区別がつかないのだが,これを『武士の乗馬』の馬と同じだとすると,左前肢(㉑)と右前肢(⑳)と左後肢(⑭)が前に向かって振り出され,右後ろ肢(⑰)だけが後ろに向いている。馬の走り方の図解を調べてみても当てはまるものがない。強いてあげればギャロップ(=全力疾走)という走り方の一瞬に似ている。肢がきちんと伸びていないから,馬が踊っているように見える。

この馬の肢運びが,『富嶽三十六景』の他の作品でも多く見られる。ゆっくり歩いているはずの馬や,立ち止まっているはずの馬でも同じような肢運びになっているのが面白い。

8(改訂): 真ん中の馬の表情が皮肉な笑い顔(㉛)になっているように見える。通常,馬の目は丸に近いアーモンド形をしていて,白目が小さい。この馬の場合,目は三角で,小さな黒目が白目に回りを囲まれている三白眼(㉚)である。これが北斎自画像『画狂老人』(図10)の目に似ている。口を半分開けたようすも似ている。北斎の悪戯心なのか。

1850北斎自画像80
                      図10

9(新指摘箇所): 中央の馬は曲がり角を前に手綱が緩んで顔を上げている(㉛)。このままでは馬は全力でカーブに入り危険だ。

10(新指摘箇所): 逆に先頭の馬が顎を胸まで引いている(㉜)から,強く手綱を引かれているのだ。しかし,道が直線になった所で早馬が速度を緩めるだろうか。


11
(もっとも指摘したい箇所): 武士の姿には強い違和感を覚える。疾駆する馬上で笠(⑲㉙)を正円に保てるわけがないこと。打裂羽織(㉔)が派手過ぎること。打裂羽織の風に翻る様が写実的でなく,締まった形にきっちりまとまっていること(㉓㉔)。上半身が折れ曲がることなく地面に水平になっていること等がその違和感のもとになっている。

私の想像になるが,水平に配置された丸い笠・派手な打裂羽織が人形の姿に見える。画を90度回して見ると,人形姿がよくわかる。武士の本当の足は薄青と黒を基調に描かれているため,派手な打裂羽織に対応しきれていない。しかし見ようによって,中央の人馬で,本物の足の隣にくっきりした赤い足(㉖)が浮き上がってくる。この足は本物の足が赤いゼッケン(㉕=あおり:鞍にとりつけた泥除け)を縁どったものだ。特に中央の人馬は,黒馬の上に赤い着物を着た人形が赤い脚絆をつけて疾駆しているようで,とてもシュールだ。これまでに見てきた北斎の行状からすると,私の想像は彼の作画意図の範囲に入ると思う。

では,北斎の作画意図は何だろうか?「あんた方は自分の意思のないただの人形だ」とか武士をからかうことではあるが,単にこんな画を描いてみたかったからなのかもしれない。


場面設定について:

12 『富嶽三十六景』にはすやり霞(=対象間にある空間と時間を超越させる約束事が成り立つ。画面の転換に用いられる日本画の技法)が多用されている。すやり霞の使用についても北斎は多様な趣向を凝らしている。「波」や「松」についても同様だが,ここにも凄まじいまでの彼の創意工夫へのこだわりがある。

本作品のすやり霞(図8の赤丸)は,低い・水平方向に細い切れ目が何本も入っている・霞先端が草むらの中に潜り込んでいるといった特徴があり,これらの組合せは他には見られない。

13: 中央の武士の手綱が霞と結合しているようだ(㉘)。さらに,武士は霞を体の後方に引いている。これらによって疾走感が強調されている。現在の漫画家が使う手法と同じではないのか。

14: 背景となった白い霞が最後尾の武士の姿を鮮やかに浮かび上がらせている(⑱)。

 

15: 街道中央に松が枝を伸ばしている(①)。『富嶽三十六景』中10作品に松が登場し,そのどれもがそれぞれ多様に描き分けられているのが凄い。この松は堂々と伝統的な趣をもって描かれていて立派だ。

16: 枝の下方に赤富士(②)がある。

17 北斎は,松の下の富士構図を特に愛したようで,松が出てくる『富岳三十六景』10作品中7作品でこの構造を用いている。また,松の枝葉の輪郭を結ぶ線を引くと,『神奈川沖浪裏』の大波Great waveが現れる(図11:線の引き方には別のものがあるが,それは波形が小さいのでこちらを例にとった)。さらに右の木の樹冠や土手に線を伸ばすと波のうねりが見えてくる。これは前述『下目黒』の17樹下波上と富士構図にあたる。

1860隅田川関屋の里松波構造
                               図11

18(新指摘箇所): 街道のジグザグの曲がり具合と樹下波上の不二構図が他作品に共通する(『東海道品川御殿山ノ不二』『駿州江尻』『神奈川沖波裏』)。

19(新指摘箇所): 高札場(⑤)は幕府の通知を周知させるものだ。人目に付く場所に設置されていたが,それがこんな街はずれにあっただろうか。

20(新指摘箇所): 高札場の囲いは格子構造()になっているが,格子内側に板を張っているようで,格子の隙間から背景が透けて見えない。しかし,格子内側に板張りしているにしては,内側に格子(⑦)が見えるのがおかしい。

21(新指摘箇所): 庇が巨大(③)で,実際のものとは違う。

22(新指摘箇所): 柵の上の構造(⑥)が下の構造(⑨)より大きいのが変だ。庇を入れて比べると,下から順に大きくなっている。

 

このように,北斎はありえない姿態の馬を描き,武士をからかい,新しい手法を試みながら,一見すると違和感のない緊張した美しい画面をつくっている。

 

 

北斎が『富岳三十六景』作品中に盛り込んださまざまな嘘・冗談・謎・卓越した工夫などのアハaha700を超えてから積極的には探さなくなったのだが,それでも現在800を越える)を箇条書きにしていく。

 

(4―2)北斎 自由すぎる空間表現(後編)(15

 

 

 (42) 尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)

 

尾州富士見原は現在の名古屋市中区にあたる。

桶づくりの職人が一人,桶の中に入って内側に槍鉋(ヤリカンナ)を掛けている。長い柄に刃がついた槍鉋は木を削って滑らかにする道具で,現在使われている台鉋ができる江戸時代まで鉋といえばこれだけだった。画は桶の円の向こうに富士が見えるという面白い構図(図1)を取る。

42.0尾州富士見原
     図1

 

1: 底がまだ嵌っていない桶の中で職人が作業している。後方に富士(図2の⑤)を配して,桶の中の富士をつくる。その構図のユニークさで知られる作品だ。

42.1尾州富士見原番号3
     図2

歌川広重(=安藤広重)が本作品を葛飾翁の図にならゐて』という団扇画(団扇に貼る版画)に模倣している。団扇画には屋外に置かれた巨大な(巨大すぎる)桶・作業する職人・桶の中の富士などが踏襲されている。

(17)信州諏訪湖』に述べたが,広重は自身の『富士百景』序文に,北斎の画を「絵組のおもしろきを専らとし」と評価している。勝手に解釈すると,広重は北斎の画を「作為的に面白くつくっている」と認識していた。そして,「予(ヨ)がまのあたりに眺望せしを其儘(ソノママ)にうつし置たる草稿を清書せしのみ。・・・・、図取は全く写真の風景にして、・・・」とあるから,「自分は見た通りの風景をスケッチし,それをもとに写実的に作画する」という。その作画姿勢の広重が作為に満ちた問題点だらけの北斎の画を団扇画に模倣しているのだが,広重はそれら問題点に修正を加えて,すこしでも写真の風景に近づけようとしている。悪あがきのようなものだが,修正点があれば,広重が北斎の作為と考えた箇所になる(葛飾翁の図にならゐて』の画像は使用禁止ということで掲載できないため,興味のある方はご自分でネットから見てください)。

以下,私は,北斎の画と広重の画を比較して,北斎の画の問題点を述べていく。私が北斎の画は作為に満ちているといっても多くの方には信用されないだろうが,広重が指摘するなら信用していただけるのではないかと期待している。

 

さて,その比較だが:

 

2: 富士見原からは南アルプスの山々に遮られて富士は見えない。北斎画にはその南アルプスの山々がない。アルプス連山の代わりに樹冠の連なり(④)があって,樹冠の上に富士が小さく実際の景色であるかのように描かれている(⑤)。一般には,北斎が南アルプスの聖岳(ヒジリダケ)を富士に見誤ったと考えられている。しかし,北斎は『富嶽三十六景』刊行前に二度名古屋を訪ね,滞在もしている。北斎が富士見原を訪れたかは定かではないが,聖岳については旅の行き帰りに親しく見ていたはずであるし,富士については道々その移り変わる姿を詳細にスケッチしていたことだろう。並外れた感性の持ち主がはたして崇拝する富士と独立峰でもない聖岳を見誤るだろうか。それはない。だから,北斎は十分わかっていて見えない富士を桶に入れたのだ。

広重については,東海道を旅行している説としていない説の両方があってなんともいえない。団扇画では,広重は北斎にはない工夫をして富士と南アルプス連山の問題を解決している。すなわち,彼は大きく描いた富士の下に白いすやり霞(=対象間にある空間と時間を超越させる約束事が成り立つ。画面の転換に用いられる日本画の技法)を配した。すやり霞によって桶の空間は尾州富士見原から切り離され,一気に富士の近くに展開できる。不思議なのは,すやり霞を多用する北斎が本作でそれを使っていないことだ。

3: 図3に北斎と広重の桶の基本構造を示した。左は北斎桶で,上側の円を赤実線(b)で,底となる下側の円を赤破線(e)でなぞった。また,外形に合わない部位を緑実線(a)で表した。側板(図2の㉗)の縁の一部(cdfg)には線を入れた。側板とは縦長の板をいう。桶は側板を何枚も横につなぎ合わせ,箍(タガ)(⑪)という幅広に裂いた竹で絞めて固定し,底板をつけたものだ。これらの線を抜き出したものが中央の北斎の桶になる。右には北斎の桶に対応する広重の桶を示した。広重の桶にも円の一部に若干の修正(m)がある。


42.3尾州富士見原円組合せ
            図3

まず,どちらの桶も基本構造がきれいな楕円からできているのには驚いた。ただし,画家の視点は斜め右上にあるので,見え方としては広重の縦長の桶が正しい。

4: 北斎の桶は上側の正円に近い楕円(b)と下側の横長楕円(e)が組み合わされている。下側の楕円を横長にした結果,職人の横にある側板の長さdが広重のkより長くなっている。

5: 北斎の側板で最も長いのは図2の(③)だ。しかし,なんと線が途中までしか引かれていない。画をなるべく写実的に見せようとしていて,それ以上引いたら桶の正確な描写が破綻するからだ。当然側板の形(②)は他と比べて大きく歪んでいる。同じことが(②)の対角の位置にある(⑯)周辺にもいえるのだが,北斎はそこの側板の線を槍鉋で削ってないものにしているのが凄い。広重は桶を歪めていないので,そんな工夫をする必要がなかった。

6: 桶の側板は,広重画では水平から角度37度の範囲で傾き,ほぼ同じ向きになっている。北斎画では角度12度から33度までと傾きがばらついている。北斎の桶は歪んでいる。

 

36の事実から何がわかるのかといえば,北斎の場合,画面上広い空間を桶の中につくって職人の居場所にゆとりを持たせたこと,富士も横に広い空間の彼方にあって遠さが強調されていることがあるだろう。広重はそのような非現実的桶にはしなかった。

 

さらに:

 

7:  図2の㉗の側板がまわりのものより大きいように,北斎の側板の大きさは不揃いだ。江戸時代でも,ある規格の桶をつくろうとするとき,側板の大きさは決まっていただろう。そうでなければ何枚の側板を組み合せたらいいのか,その都度調整しなければならない。広重画では,側板のサイズはだいたい揃っている。

8: 北斎の側板が広重のものより薄い(特に⑦)。北斎の桶は頑丈ではない。

9: 北斎の桶では,上側左の箍の位置が桶の上端に迫っている(①)。これは箍がずれていることで,外れやすく桶が崩壊する危険を意味する。面白いが,広重はまねていない。

10: 大きな木桶は食品を入れるものだから,まず清潔であることが求められる。北斎画面左に石垣(㉘)があり,その上の台地に桶があるから,桶は台地上の地面に置かれていることになる。しかし,桶職人が外で作業するだろうか。外作業では桶に泥がついたり,職人が体重をかける部分が砂利や砂で傷ついたりする。しかも職人は草履を履いている(⑰)。あたりを歩き回った足で桶の中に入ると,内側にも泥や砂がついて木肌を汚すことになって,桶の商品価値は下がる。だから,これは屋外作業ではなく,屋内で桶つくりをしている職人を空想の中で外に連れ出しているのだろう。鑑賞者は疑うことなく外に誘い出される。

広重画でも桶は屋外に置かれているのだが,彼は次の1112の工夫を捻り出している。

11: 北斎画では職人は草鞋の足で桶の内側を踏んでいる(⑰)が,広重画では職人は草履をはいているものの板を踏んではいない。

12: 北斎画では桶の背景は灰褐色の田んぼ(⑨⑩)になっているが,広重画では青い水面になっている。草履といい,背景といい,広重画の方に少し清潔感がある。

13: 北斎の職人の右足を見ると,大腿部(⑱)はあるが,ふくらはぎのある下腿部がそれとはっきりわかるようには描かれていない。ひいき目に見ても下腿部はないようだ。広重の場合,上腿部と下腿部とを分ける線が間に入っている。

14: 北斎画では木槌が桶の左右に置かれて(⑬⑭㉑),桶が転がるのを防いでいる。しかし,右の木槌(⑬⑭)の組み方に無理があり,⑭は槌の頭が浮いている。広重では両方の木槌がしっかり地面についている。

15: そもそも職人が木槌をストッパーとして使うだろうか。職人は道具をもっと大切に扱うはずだ。広重画では,図2の赤線⑮の位置に棒が一本描かれている。長さからして天秤棒には見えない。広重は簡易なストッパーを描いているのだ。

16: 北斎画の⑬の木槌は大型(=掛け矢)だが,柄がとても細く,実用的ではない。広重画では少し太くなっている。

17: 広重画では掛け矢⑭の頭の右側に溝のような深い切れ込みがあって柄につながっている。これでは柄と頭の結合部が短くなり強度が心配になる。広重画では一部溝はあるがそこに柄はついていない。

18: 桶の横には天秤棒(㉓)がある。天秤棒に桶づくりとどんな関係があるのだろうか。広重画には天秤棒がない。

19: 桶の傍には箱(㉒)があるが,他にそれらしきものがないから天秤棒はこの箱を運ぶためのものだろう。天秤棒を使うときには荷物に紐がかかっていないといけないが,箱には紐がかかっていない(『相州仲原』の天秤棒を参照)。

20: 北斎の画には中央に正円のある画が多い(『武州千住)。本作品では桶が正円にあたる。広重の円は現実的な縦長の楕円(図3中央)になっている。

 

上に述べた変なところはどう考えても北斎がわざとやっているところだ。そこを広重は修正している。つまり,江戸の同業のプロが,北斎の画中の様々な作為を認めていたことになる。

 

21: 北斎・広重の画で,槍鉋の刃(⑲)と柄(⑳)の角度が異なる。画面上で北斎の方が140度ほど,広重の方が130度と,広重の方が大きく曲がっている。しかし,私にはどちらが正しいのかわからない。

22: 北斎の職人は左手で槍鉋の刃と柄のつなぎ目の少し上を握っているのに対して,広重の職人はもっと上の方を握っている。力が刃に確実に伝わるのは北斎の方だろう。

23: 他にも,北斎の画には石垣(図2の㉘)と後方に木(㉙)が描かれているが,広重画には石垣はなく,柳の木が間近にある。北斎の職人はもろ肌脱ぎだが,広重の職人は腹掛けをつけている。北斎画には人家がないが,広重画にはある。北斎の竹の束は左にあるが,広重では右にある。

 

広重が北斎画を修正せずに描いている箇所がある。

 

24: 桶は巨大で,何に使用する桶だったのだろうか?これは広重画でも巨大だ。

25: 両者の画で職人は一人で作業をしている。しかし,大桶づくりを一人でするものだろうか疑問だ。

26: 槍鉋を使っていると鉋くずがたくさん出るが,両者とも鉋くずを描いていない。

27: この時代,桶作り職人は槍鉋(⑲⑳)を使ったのだろうか疑問だ。江戸時代には現在使われている台鉋があった。台鉋の種類は多様で,桶づくり用のものもある。丸みの付いた台鉋のほうが楽に作業できるはずだが,画としては職人が台鉋を使うと前屈みになり面白くない。

28: “せん(㉕)”という側板製作用の道具が置かれている。当作業段階では使用しないと思う。また,木槌も当段階で使用するものではないだろう。

29: 富士がある東の空が朝焼け(⑥)に,薄紅に染まっている。しかし,朝焼けにしてはあたりが明るすぎる。それに,桶の中で職人が東を背にして作業をしているが,朝だとしたら日の光を遮って職人の手元が影になってしまう。おかしな設定だが,広重は踏襲している。

 

北斎画だけにみられる変なところもある:

 

30: 田んぼに畦道の線(⑨⑩)が引かれている。直線で区切られているから区画整理がされている。横向きの畦道(⑨)はほぼ直線状につながっているが縦方向の畦道(⑩)はジグザグを繰り返している。これでは農作業時の移動の効率が落ちて現実的でない。広重の画では田んぼではなく水面になっているため,この問題は生じない。

31: 畦道の描き方が中途半端だ。線が描かれていない空間(⑧)が広いのはなぜだろう。水没で畦道が見えないことなどあるのだろうか?もしかしたらこれが北斎の“変形すやり霞”なのかもしれない。そうであれば,前述2が理解できる。

32: 桶の左上にある松の木が枝を下方の富士に向かって伸ばしている。これは松の下の富士構図だ(『東都駿台』)。さらに木の枝と桶の円をつなげると『神奈川沖波裏』のGreat Wave の形になって,Waveの底に富士があるという松と波と富士構図になる(図4)。松以外の樹木を加えて,樹下波上の富士構図とすると,この構図の作品は他に8つある。広重画にはこの構図はない。


42.5尾州不二見原松波下富士
                図4

 

北斎は,これだけ多様なことを仕込んでおきながら画を破綻させることなく,斬新な構図で人目を驚かせ,日常の生活風景における富士の清浄な印象を際立たせている。たいした御仁だとつくづく思う。

 

 

(43) 常州牛掘(じょうしゅううしぼり)

 

常州牛堀は霞ヶ浦から流れ出る常陸利根川左岸にあった。現在の茨城県潮来市にあたる。

霞ヶ浦に一艘の高瀬船(平底の川船。利根川水系では大型の帆船が使われた)が乗り出している。船上では船子が朝食の準備をしている。霞と葦原の上に富士が荘厳な威容を見せている(図5)。

43.1常州牛堀
     図5


1:
 大胆な構図だ。高瀬船が画面を対角線に横切る形で左上に向かってせり上がっている。

 

船子たちがいる三角屋根の小屋がある。高瀬船の世事(セイジ)とよばれる居住区だ。ここで高瀬船の船子たちは水上生活を送った。世事を含めて北斎は微に入り細に入り船のようすを描写している。その正確さが後世の鑑賞者に高く評価されているのだが,よく見るとおかしなところだらけだ。

 

2: 船の中から身を乗り出して釜を洗っている男(㉗)が面白い。男は小屋の屋根板を外して身を乗り出している。ここで,世事の床がどこにあるかをみるとおかしなことに気づく。本来世事の床下は船底近くにあって,その下には貨物を積むスペースがなかったはずだが,本作品にはそのスペースがある(⑳)。そのため,世事の床はほぼ梁(㉔)の高さになり,船縁近くでは三角屋根と床の隙間はとても小さくなる。男は床に腹ばいになって釜を洗っていなければならない。

43.2常州牛堀番号2
       図6

3: 解説書の多くは,男が朝食の米を研いでいるとしている。しかし,釜を水切りのために傾ける角度が急すぎる。これでは研いだ米が流れ落ちる。しかも,男の左手は釜の縁に触れていない(㉖),つまり支えていない。縁の下に手を出していても米は落ちる。

4: 流し落とした水が川の水面に当たって立てる飛沫が小さく(㉒),高所から落とした水が水面に当たって跳ねる水とは違う。小さな飛沫は米粒の跳ね返りのようにも見える。研いでいるとすれば米粒が流れ落ちるから,当然の描写だ。男が釜を洗っていると考えても左手が釜の縁を支えていないのが変だ。

5: これまでも,北斎が描く船には何もしない乗客が乗っているとして,私は彼らを舟童(フナワラシ)と呼んできた。彼らはとても小柄で月代頭をしている。ここにも2人(⑧)いる。私には左右の頭のどちらが胴体につながっているのか見分けがつかない。

6: 前屈みになっている⑧の男の姿勢は“コ”の字を取る。背中が腰と背骨中ほどの二か所で90度曲がっている。あり得ない。

7: 柱⑩と柱⑪は船の中心線に縦に並んでいるように見える。しかし,柱⑩は柱⑪と接ぎの木材⑭でつながっていて,⑭の向きから柱⑪は右側にあることになる。船はおかしな構造になる。

8: ⑩の後方の柱が柵のように並んでいるが,高瀬船の中央にはそのような柵構造はない。

9: ⑫の構造物が何かわからない。

10: 世事の入り口の横は板張りされている。右側(⑦)が左側(㉑)より短い。

11: ⑯の板が荷物の上にじかに置かれているようだ。というのは,⑨の板は桟によって支えられているのが,⑨左端の下に一枚板が入っていることでわかる。ところが,⑯には桟のようなものがない。

12: 世事の三角の壁をみると,下部(⑦㉑)は板張りされているが,上部(⑥)はされていない。世事は船子たちの日常生活の場であったのだから,雨露をしのげるようにしっかり板張りされていただろう。

13: 世事の左端の柱(㉔)は三角屋根に隠れて一部しか見えないが,右端の柱と比べて太い。

14: 船の左右の船板を結ぶ横柱のような構造をみると,舳先に近い㉘が後方の㉔より傾いている(㉔と㉘の引出し線は梁の傾きと同じ角度にして引いてある)。船が捻じれている。

15: 船には荷物がたくさん積まれている。右側には板(⑨⑯)が渡されているが,左側では荷物がむき出しになっている(⑰⑱)。雨や水しぶきがかかるから,覆いがあってしかるべきだ。

16: 荷物がたくさん積まれている割には,船はあまり沈んでいない。

17: 船の中央部にむしろを畳んだようなもの(⑱)が置かれている。積み方がいい加減で整っていないのが変だ。

18: 高瀬船は帆走した。船の上に帆柱(㉟)が横倒しになっている。帆柱には綱が何本も張られて操作されていた。帆を立ててから綱をつけることはしないだろうから,帆柱先端(㉞)に綱がついていないのは変だ。

19: かわりに帆柱先端には汚れた布が下がっている。洗濯物ではなさそうだ。この汚れたような布は他にも2つ見られる。どれも整然と描かれた船には似合わない。

20: 舳先の甲板に綱が2本ある。1本(㉜)は船縁に結わえ付けられているが,もう1本(㉛)は両端とも固定されていないようだ。何のための綱かわからない。前記3のように錨綱ではない。

21: 箒と塵取り(㉚)が舳先にあるのも変だ。悪天候になると転がり落ちそうだ。使用時に取りに行くのも面倒だ。

 

画面は高瀬船で斜めに区切られ,以下に述べるように左右(上下)で世界が異なる。左(下)世界は通常の世界で,右(上)は非現実的な異界のようだ。

 

22: 錨が甲板から左側の水中に降ろされてない。右側にも降ろされていそうにないから,船は走行していることになる。しかし,船は波を立てていないし,船子たちののんびりした様子から止まっているようだ。停泊中なら錨を下していないのは危険だ。

23: 右画面,船は岩陰からではなく,岩の中から突き出ているようだ。

24: 右画面の富士(①)があまりにも大きい。『富岳三十六景』中,常州牛堀は富士からは最も遠い地だ。それがまるで間近にあるかのように描かれている。といっても,当シリーズの中では肉眼視に近い大きさに描かれている富士はあまりない。画の構成に合わせて小さいもの・大きいものが適切に描かれている。中には本作品や『青山円座松』のように,いくらなんでも大き過ぎるものもある。

25: 遠方の富士を画面上間近に持ってきていることから白い部分(③④)はすやり霞に違いないのだが,他の作品のものと比べて輪郭が明瞭でない。葦原の葦がすやり霞(④)に食い込んで,あたかも本物の霞か霧のように見える。だからいっそう,大きな富士が間近にあるように感じてしまう。

 

左画面,船は舳先を葦原に大きく突き出し,青く染まった湿原には鷺が飛び立つ。水面は途中から霞に移行し,やがて霞は雲に変わって舳先を空に導く。雲は右になびき(㊲),富士の近くで暗青色の空に移行する。場面は展開して巨大な富士がある右世界(=異界)へと誘う。

右画面背景は,船・水面・葦原・すやり霞(③④)・空で構成されている。すやり霞に浮かぶ葦原に人家(②㊳)がある。人家の後ろには富士がそびえる。

 

26: 左画面空と湿原水面の位置関係は,霞が間に入ってわからないようになっている。右画面の空の高さから左画面の地平線(㉙)を推察した時,舳先は空に入っている。これが変だ。画家の視点は右端の岩の上にあって,船を見下ろしている。岩は船より十分に高く,高瀬舟の舳先は反り返っているわけではないから,それが空に入るように画家に見えることはない(橋の上から下の川を通る船を想像してみましょう)。左右の画面で水準となる高さが異なっている。

27: ④のすやり霞は富士の手前にあるが,③のすやり霞は後方にある。③のすやり霞はおそらく画面の中では最も遠方にあるものだが,左画面から伸びてくる雲(㊲)より下にあるので,近いように感じる。

28: 家々の屋根(②㊳)は平坦に直線的に描かれているため,屋根は茅ぶきではなく瓦ぶきのようだ。壁も土壁でなく板壁なのではないか。それが瀟洒で都会風に見える。葦が湿原中に浮き島状(パッチ状)に密生しているのだが,そこに瀟洒な家々が立っているのは不思議な光景だ。

29: 右画面㊳の家の前に葦が密生している。左画面の葦と比べて右画面の葦の背が異様に高い。㉜の葦原は高瀬船の舳先右にあるため,高瀬船が不思議な家につながる葦原につきこんでいく情景になる。

30: 後摺りでは,㊳の人家の後に白い三角形がある(㊱)。白だから雲か霞だろう。それにしても唐突だ。その三角形が右の藍色の空につながっているため,三角形が壁に,藍色の空が青い瓦屋根に見える。その巨大な瓦屋根は富士の稜線につながっている。何ともシュールだ。初摺りにはこの三角形がないところをみると,後摺りの段階で版木部分が欠けたのだろうか。それを北斎がチェックしなかったか,容認したかだ。いずれにせよ,破損修理は可能なはずなのだが故意にしなかったようだ。

31: ㉓の藪の形が犬のようでもあり,モンスターのようにも見える。この形の藪は『富岳三十六景』の他の多くの作品中に類型がある。

32: 世事の屋根は茅ぶきだ。茅はひどく破れていて,前方には茅がほとんどかかっていない。この辺りでは茅に不足はなかったはずで,修理は可能だった。では,なぜ北斎はこんな破れ屋根にしたのだろうか。私は,茅ぶきの形が富士の冠雪に似ているのではないかと思い,それを確かめてみた。まず,茅部分を赤色の輪郭線でなぞった(図7)。


43.3常州牛堀屋根
                図7

赤の輪郭線(図8左)を反転させ,次に線を2か所で切断した(中央の×印部位)。3つに別れた部位を富士の稜線に合うように移動させて茅屋根の上端を縮めたものが右図で,富士の冠雪(図6の①)に似ている。

43.5常州牛堀屋根富士冠雪2
                図8

33: 富士の稜線が『御厩川岸より両国橋夕陽見』の渡し船の曲線とほぼ一致する(図9)。

43.9常州牛堀渡し船e
                図9

 

初摺りは藍色一色で美しい。

 

 

(4ー1)北斎 自由すぎる空間表現(前編)(14

北斎の自由自在な空間処理には驚かされる。特にユニークで斬新と思われる作品を紹介する。

 

 

(38)江戸日本橋 (えどにほんばし)

 

人々の往来で江戸日本橋は賑わう。橋がかかる堀(日本橋川)の両岸には魚河岸と白壁の土蔵群が並ぶ。北斎は曲線と直線を駆使して人々と建物を描き,様々なトリックを用いて空間表現する。江戸城と富士が上方に位置する(図1)。

38.1江戸日本橋
    図1

 

1: 左岸の線は直線だが,右岸は湾曲した曲線になっている。そのため右岸は左岸より長くなっている。実際の建物の大きさは両岸とも同じようなものだろうから,その数も似たようなものになるはず。しかし,建物は右岸に16棟,左岸に11棟ある。これでは,右岸の建物の実際の横幅は左岸のものより短いことになる。

2: 右岸では,建物によって屋根と庇の延長線の収束する点(遠近法の“消失点”)が違う(図2の②⑤等)。

38.3江戸日本橋番号


               

図2

3: 屋号がついた土蔵があって,遠近法に従っている屋号(⑥)もあれば,ないもの(⑦)もある。

4: 右岸では横向き土蔵の描写は建物によって遠近法(=遠くが小さい)に一応従っているが,縦向き土蔵(①③)の描写は従っていない。これに対して,左岸では横向き土蔵と縦向き土蔵(㉗)の描写はともに遠近法に従っている。遠近法に対しての準拠の度合いだが,左岸では建物ごとであるのに対して,右岸では全体を通している。チグハグだ。

5: 多くの土蔵には堀側に窓があるのだが,①の土蔵には窓がない。換気は大丈夫だろうか。

6: 富士のある方角からみて,堀の右は北岸に左は南岸になる。北岸は当時魚河岸があった所だ。北斎はそこに船着き場と小舟と働く人々を配置しているが,南岸には土蔵しかない。歌川(=安藤)広重や渓斎英泉が日本橋を描いた作品では,両岸に舟が多数描かれている。北斎はわざと南岸の賑わいを失くしていることになる

7: 日本橋の上は大混雑なのに,魚河岸に入る舟が相対的に少ない。

8: 土蔵が並ぶ河岸に,手前のもの(⑬)を除いて桟橋がない。左岸の建物に出入り口らしきもの(図2の㉗)が一つあるが,その前にも桟橋がない。これでは効率的で安全な荷運びはできないだろう。実際には桟橋があった(歌川貞秀『東都日本橋之勝景』参照)。

9: ⑬の桟橋だが,橋脚(⑭)が石垣にめり込んでいる。建造工程を考えれば,まず堀の石垣をつくり,その後で桟橋をつくるはず。それなら橋脚が石垣にめり込むことはない。

10: 船着き場の近くの舟の舳先が異常に大きい(⑪)。もちろん誇張なのだが。

11: ⑪の舟に乗る二入の男(⑫)がどちらも操船しようとしていない。舟は錨をおろしていないし,桟橋にもやってもいない。このままでは岸か他の舟にぶつかる。この二人の男は例の舟わらしだろうか(北斎が描く舟には,必ずといっていいほど,何をしているかわからない,小柄で月代(サカヤキ)姿の男が数人乗っている)。

12: 舟子が二人とも舳先に対して後ろ向きになっている舟(⑲)がある。これでは操舟できない。この状況は北斎が好んで描くもので,次の『深川万年橋』にもある。

13: 日本橋魚河岸には生きのよい近海の魚が入荷していたはず。本作品の魚河岸に上がる荷は梱包されたものばかりだ。それが積み上げられているから(④⑨),中身は生きのいい魚ではない。

14: 実際の土蔵には堀に面して入り口があった(歌川貞秀『東都日本橋之勝景』参照が,本作品の土蔵(③⑧など)には入り口がない。商品が水路で運ばれるとすると,これでは土蔵に出し入れできない。

15: 家が堀の際までせり出していて,塀と家の間に通路になるような空間がない。特に左岸には㉘の狭い空間以外に道らしきものがない。右岸の道(⑩)も狭い。

16: 左岸の土蔵群は柵で水路と隔てられている。柵と土蔵に密着しているようで,㉘に続く道はどう見てもありそうにはない(㉙)。

17: そもそも何のための柵だろうか?日本橋川に面して土蔵が立っていても,舟で運搬する物資を出し入れすることができなければ,土蔵は何の役にも立たない。実際には左岸にも船着き場があったのだから,すくなくても柵が途切れる場所はあっただろう。

18: 左岸土蔵群の中央部に他とは違う建造物(㉖)がある。建物の入り口だろうか。石垣上部(⑳)が水路から引っ込み,柵(㉔)も折れ曲がって描写されている。しかし,それは上部だけで,下部は直線(㉒)になっているから引っ込んではいない。おかしな構造だ。

19: 左端の家の横には薪がびっしりと積み上げられている(㉕)。薪が積まれてある空間描写が凄い。水路の石垣(㉑)を後方の石垣からわずかに出っ張らせ,柵を後方の柵と段違い(㉓)にしてある。そうやって空間を稼いでいるが,稼いだ横幅より長い薪(㉕)を積み上げている。

20: 堀の奥,日本橋川の突き当り近くに一石橋(㉚イッコクバシ)があるが,橋の上の賑わいが見られない。

21: 古地図を見ると,一石橋の向こうは江戸城の外堀で,日本橋川と外堀が交わる奥には道三堀(ドウサンボリ)がある。道三堀は江戸城の奥に入り込む堀だ。しかし,本作品では,突き当り正面が江戸城の石垣(㉜)になっている。つまり,道三堀がなく,外堀と日本橋川がTの字になって交わっていることになる。

22: その一石橋(㉚),右が引っ込んでいるように見える。それにしては左の橋脚が適切に描かれていない。

23: 私は城には石垣上(㉜)に白壁の土塀があると思い込んでいるのだが,江戸城には無かったのだろうか。

24: 江戸城に金色の破風(㉞)がある。三つの破風に屋根(㉝)が四つついているのが変だ。

25: 日本橋の上は身動きが取れないほど混雑している。そこを行き交う人々(両手で籠を差し上げる男・籠を傾ける男・橋の下を覗き込む暇人など)の描写が面白い。

26: 橋の上に大きくて重そうな角材(⑰)があるが,担ぐ人物がいない。

27: 橋を渡ろうとする横向きの人物が4人,笠をかぶっているためどちらに歩いているのかわからない人物が8人いる。見物人なのだろうか,橋を渡るようすがなく鑑賞者に向かって顔を向ける人物(⑯)や背を向ける人物や後頭部を見せる人物が9人いて,橋の上の動線を遮っている。彼らは混雑の原因になっている。

28: 日本橋に大八車(⑮)があるが,その前後には車を引くか押すかしているような人物がいない。

29: ⑮の大八車だが,小分けした包みを積みあげられている。縄紐のかけ方が不十分で,包みが落ちそうだ。

30: 日本橋の中央に円形の傘(⑱)がある。北斎は『富嶽三十六景』の半数以上の作品で,画面中央部に正円かそれに近い形の円を入れている

 

31: 縦向きの土蔵だが,図3のようにどの屋根も堀に向かって少し傾いている(図3の①③④⑥)。図3では,水平を江戸城の櫓の庇の線(②)にとって黄色の線で,土蔵の屋根の線(①③④⑥)を赤色の線で示した。

38.5屋根角度江戸日本橋2
        図3

32: ⑦と⑧の窓の遠近法の収束方向だが,上側の窓は右下がりに収束しており(⑦),下側の窓の傾きと違う(⑧)。

33: 右岸にある3棟の横向きの建物について,庇の傾きを色分けした線で示した。⑩は3つの庇の線を合わせたものだ。庇の傾きが建物によって異なる。これも遠近法に従っていない例となる。

34: ⑨は3つの屋根の棟の傾きをとって合わせたものだ。棟の傾きが3つとも異なる。

35: 3つの棟の傾きパターン(⑨)と3つの庇の傾きパターン(⑩)が一致しない。北斎は『富岳三十六景』を定規とぶん回し(=コンパス)を使って描いたといわれている。それにしては⑨と⑩のパターンが一致しないというような一貫性がないところがある。おそらくこれも作為だろう。

 

36: 北斎の視点は日本橋の少し上で土蔵の屋根より低い所にある。富士は土蔵の屋根の上に描かれているが,視点の高さからみて,富士の位置が高過ぎる。そもそも本作品の視点では富士は見えない。

 

北斎は空間を自在に操っている。富士が日本橋の賑わい・江戸の活気を見守っていることを江戸庶民が感じ取れる作品だったのではないか。

 

 

(39)深川万年橋下(ふかがわまんねんばしした)

 

万年橋は江戸の新興地深川の小名木川(オナギガワ:重要な運河にかかっていた。万年橋は太鼓橋になっていて,橋脚の間から隅田川をはさんで向こう岸には浜町の大名屋敷が,さらに彼方の富士が見える(図4)。

39.1深川萬年橋
    図4

 

1: 橋が捩じれている(図5)。

39.3深川萬年橋延長線
      図5

画面の水平を橋の彼方に見える大名屋敷塀にとった(図5の④。⑨は④に平行で水平な基準線)。水平④をもとに,左右橋台両端を結ぶ水平線(⑥⑦)を引くと,橋台両端が水平に繋がる。さらに左右橋脚は⑥の線でほぼ繋がるが,これは⑥ではなく,⑦と一致しなければならない。現状では,橋脚は橋台の位置からずれて後方にあることになる。

2: 橋脚と橋台からそれぞれ垂線(赤線)を降ろした。右の橋脚から橋台までの距離(⑩⑪間)が左の橋脚から橋台までの距離(⑭⑮間)より長い。

3: 左橋脚と右橋脚について遠近法の消失点をみると,橋脚上側(①②),橋脚下側(⑫⑬)はともに後方にあるのだが,1点に収束しておらず,遠近法の一点透視図法に従っていない構図だ。

4: 右橋台が橋と接する部位の延長線(⑤)をみると,右後方の建物の線が左下がりに傾いているが,橋では⑤の線が右下がりに傾いている。これが変だ。⑤の線も左下がりになるはず。橋台下の線(⑧)は右後方の石垣の線(図では破線)とほぼ一致して左上がりになっている。

画面左側については,北斎は橋台と橋との接点を樹木で隠して誤魔化している。

5: ⑤の延長線(③の点線)は左橋脚のつけ根の延長線と一致する。北斎の作為以外の何物でもないのだが,なぜこんなことをしたのか想像できない。

 

計算し尽くされた騙しの構図だ。

 

6: 万年橋が円弧ではなく,左右非対称の曲線になっている。上記1のように,右の橋脚(図6の⑫)から橋台(⑨)までの距離が左の橋脚(⑯)から橋台(⑲)までの距離より長い。実際,橋の欄干(てすり)の柱の本数は左端から左橋脚まで8本であるのに,右端から右橋脚までは11本ある。

39.5深川万年橋番号
      図6

7: ⑥の人物は階段か急坂を登っているようだ。右橋台(⑦)が急な右下がりになっているためだ。これでは,橋台が平らではなく,橋のある側が尖っていることになる。構造的に強度は大丈夫なのだろうか。

8: 家の大きさをみると,右岸の家(⑧)が左岸の家(⑰)より小さく,屋根が低い。

9: 橋脚の柱の太さを比較すると,左(⑯)が若干太く,右(⑫)が細い。北斎の視点が橋の中央部手前側にあるとして,橋の右側が遠いことになる。上記8のように橋の右側の家が左岸のもの(⑰)より小さいのも,右側が遠いからだ。

10: 橋の左後方に立派な屋敷(⑳)がある。家の屋根が一階の高さの2倍ほどある。大きすぎる。

11: 川の両岸にある家屋(⑧⑳)の棟や庇の線を延長していくと,小名木川と直角に交わる隅田川の水中に没する。このように,本作品では遠近法が破綻しているため解説者の評判は悪いが,これは上記110のように,北斎が意図してやっていることで,すごいと感嘆した方がよい。

12: 橋に③と㉒の円で囲った部位がある。円の中には橋脚をつなぐ角材の先端がある。③の角材先端が曲がっているのが変だ。

13: 橋の中央,青い傘の真円(①)が印象的だ(上記『江戸日本橋』の30参照)。しかし,傘の人物はどこを向いているのだろう。橋の下を見るなら隣の暇人3人と同じように鑑賞者側を見ているはずで,大名屋敷側を見るなら,橋の反対側に立っているはずだ。では,この人物,橋を往来する人々を,傘を差しながら見ているのか。

14: 『江戸日本橋』と比べて,通行人が荷物を持っていないようだ。そのためか橋上の活気が感じられない。

15: 棒(⑤)?をもつ男がいる集団がある。4人が頭を突き合わせるように密着しているのが変だ。これでは荷物は持てない。

16: 古地図によると,対岸正面は田安徳川家の大名屋敷(㉓)だ。すると,(④)のあたりには運河があって,本作品のように塀は直線状に繋がっては見えなかったはずだ。

17: 対岸には火の見櫓が三つある。一つ(㉔)は大名屋敷内にあるようだが,火の見櫓は大名屋敷には設置されていなかったのではないか?

18: 大名屋敷の土塀を見ると,中央部の土塀(㉓)が左右のもの(㉑②)より大きい。しかし,同じ大きさだったのではないだろうか。江戸城下で最も格式が高い家であるのに,このような継ぎはぎの土塀を廻らせたとは考えにくい。

19: 上記18と同様に,土塀の模様が統一されていない(②㉓㉑)。

20: 画面中央下の舟には舟子が2人いる。船尾側にいる舟子は竿を操っているというより,釣りをしている様に見える(⑬)。竿が操船のものにしては細いからだ。たくさん荷物を積んだ舟には釣りする暇などない。仮に竿が操船の竿だとしたら竿が短い。また舟子のこの体勢では力が入らないし,前向きになって竿をささないと橋脚にぶつかる。

21: この舟の右舷の人物(⑭)は竿を操っているのだろうが,後ろ向きのため操船がうまくできない。このままでは左橋脚にぶつかる。

22: この舟は橋近くに描かれているが,それにしては橋と比べて大き過ぎる。

23: 例の小柄で月代姿の舟わらし(⑮)が船に乗っている。

24: 左石垣の上に薄茶色の棒のような物が林立している(⑱)。これが何かわからない。塀ではない。上に木の葉が茂っているから杭でもない。幹に見えるが,木はこれほど密生しない。

25: 小名木川の中の岩に腰かけて釣りをする男がいる(⑩)。小名木川は近郊からの荷を運ぶ運河であって,そこにはたくさんの舟が行き交っていた。万年橋が太鼓橋になっているのは大型の船を通すためだ。だから,この岩は船の通行の邪魔になる。小名木川はもともと人工的な運河だったはずで,岩などなかったのではないか。実際はどうだったのだろう?

26: 釣り人の釣り糸(⑪)が太い。北斎は細部にこだわる御仁だから,意図的に太くしたと考えていいだろう。

 

 

 (40)本所立川(ほんじょたてかわ)

 

江戸本所,丸太が立ち並ぶ材木屋で職人たちが働いている(図7)。

40.1本所立川
    図7

 

1: 何本もの細い丸太が立てられている。長いもの(図8の①)は右の屋根をはるかに超えている。しかし,これだけ細くて長い幹の木などないのではないか。たとえ杉の間伐材だとしても細すぎる。

40.5本所立川番号60

          図8

2: 灰色の木枠の囲い(⑧⑪)があって,そこに細い丸太がびっしりと立てかけられている。⑧の囲いと家の壁(⑨)の隙間にも⑥の丸太が立てかけられている。その隙間の幅を見ると,手前の竹垣(⑫)近くにはほとんど隙間はないが,後方ではの丸太の束を置ける広さになっている。北斎は前後で空間をゆがめている。

3: 木枠(⑧)があれば,枠の幅だけ細い材木の束が左右二つに分かれるはず。しかし,そこには材木が密着して立っている(⑦)。

4: 竹垣に重そうな板の束(⑩)が立てかけられている。竹垣(⑫)が壊れるだろう。

5: 木枠正面には『富嶽三十六景』の版元“”西村屋永壽の「西村」の字がある(⑬)。別の板にも文字が書かれているが,当シリーズの宣伝文句だそうだ。

6: 丸太置き場の上の木枠(⑭)に板の束(⑮⑯)が立てかけられていて,枠の角の結合部が見えない。見えない部の木枠の延長線を赤線で図9に示した。⑮の板の束は木枠にかかるが,⑯の板の束は木枠にかかっていない。倒れる。

7: 職人(㉒)が大きな角材を木挽きしている。巨材は細い木材を組んだ支えの台(⑱)に乗っているが,支えの台はあまりにも華奢で職人と巨材の重さに耐えそうにない。

8: 『遠江山中の不二』でも指摘したが,職人(㉒)が,急な角材の上に支えなしにのって木挽きすのは不可能でないにしても危険だし,効率が悪い。

9: 材木置き場に青竹が積まれている。青竹と灰色の木枠との距離を手前(⑰の赤線)と奥(⑲の赤線)で比較すると,手前が狭い。これは同じ長さになるはず。それを北斎が空間をゆがめて,木挽きの台が入るように奥を広げたのだ。

10: 木挽き職人が引く鋸と材木を支える台の距離が短い(㊲)。植人が上端から角材を木挽きしてきて台の所で鋸を止め,角材を移動させてから改めて木挽きしているとしたら,かなりの無理がある。

11: 長い材木(⑳)が黄色い材木の上にのっている。重心の位置が支点の位置より外側の空中にある。⑳の材木は落ちる。

12: ⑳の材木と交差する形で長い材木(㉑)が立てかけられている。傾きが緩いので,㉑の下端は道路に大きくはみ出して邪魔になる。道路があると考えるのは,画面右の竹垣(⑫)から左に向かって積み上げられた材木が直線状に並んでいるからだ。

13: 一人の職人が薪を放り上げている(㉔)。もう一人がそれを受け取り(㉘),積み上げている。躍動感に満ちた描写だ。しかし,積み上げる山(㉗)が高すぎて,隣の薪の山とずれが生じている(㉖)。これでは崩れる。

14: 右の薪の山には下部に崩れ防止の木組み(㉕)があるが,左の薪の山にはない。

15: ほとんどの材木が野ざらしになっている。材木は乾燥させる必要があるので通常屋根の下に置く。屋根の下に材木を入れると絵にならないので,北斎は外に出すことにしたのか。材木屋の置き場について調べてみると,材木を外に出している絵や写真もあるので,製材の過程で濡れてもいい段階があるかもしれない。しかし,本作品のように多くの材木が野ざらしなのは変だ。

16: 薪を投げ上げている職人(㉔)の右に,俵のように梱包された物(㉓)が積み上げられている。材木にしては短い。薪にしては丸太のような年輪らしきものがあって太い。一応むしろがかけられて雨に濡れないようになっている。これは何の用材なのだろう?

17: 対岸の家も材木屋のようで,茶色の木材が積み上げられている(㉙)。西村置き場と違い,むしろのような物が上にかけられている。

18: ㉙のむしろが尖って三角形になっている。隣の青瓦の屋根と比べると三角形だとわかる。むしろから顔を出している材木からして,材木は縦方向に積まれている。すると,どのように積めばむしろが三角に尖るかわからない。尖らずに平坦になるはずだ。

19: 材木のような大きなものは川輸送されていたのではないだろうか。実際,対岸の材木屋には川に面して船着き場がある。しかし,船着き場から材木置き場までの行く手を生垣と塀が塞いでいる(㉚㉝㉟)。動線が悪い。

20: 一番左にある船着き場の桟橋(㉚)の先端が杭の所までしか伸びていない。桟橋に船をつけようとしても杭に当たるだろう。桟橋をつける意味がない。

21: ㉟の桟橋は杭からは突き出ているが,右に石垣(㊱)があって,これでは桟橋に船をつけると石垣に当たってしまう。

22: 対岸の家々をみると,杭・生垣・家々・敷地に置かれた材木などは細緻に描かれているのに,塀(㉜㉞)は線を雑に引いただけという印象がある。

23: 立川を行く舟(㉛)に人気がない。船首に舟子がいないと何かにぶつかる危険がある。

24: 対岸には平屋家屋が並ぶ。このあたりは低地だから,はるか遠くまで家々の甍が並ぶはずなのにそれがない。そのため,瓦屋根(例えば㊳)の向こうは窪んで低地になっているかのようだ。場合によっては川より低くなっているのではないか。北斎ならやりかねない。

25: 富士の下に灰色(③)とピンク色(②)のすやり霞がある。白いすやり霞が富士の稜線から出ているのが珍しい。

26: ④と⑤は青い瓦屋根なのだが,富士の山肌の青と同じ色のため富士の裾野のようにも見える。すると,立川が富士の裾野より上方に位置することになる。目立たないが非常に大胆な構図だ。

27: 富士は西にあるから,画面右が北になる。当時,立川は堅川と呼ばれていて,中川から真西に向かい墨田川と合流していた。本作品では,それが右下がりに描かれているので,川は南から北へ流れていることになる。

 

嘘と虚構の世界だ。

 

 

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