北斎が『富岳三十六景』作品中に盛り込んださまざまな嘘・冗談・謎・卓越した工夫などのアハaha(私的には700を越える)を箇条書きにしていく。

 

 

(3-2)龍雲がわく(後編)

龍雲がわく(前編)』の続き

 

(28) 甲州三嶌越(こうしゅうみしまごえ)

 

甲州三嶌越とは山梨県と静岡県を結ぶ現在の籠坂峠のこと。

峠に立つ巨木の周り,旅人が手をつないでその大きさを実感している(図1)。

28.0甲州三嶌越1
       図1

 

1: 富士山頂の雲は龍雲(『龍雲がわく(前編)』)の形をしている。あり得ない形の雲だ。

2: なんとも独創的な構図だ。富士を遮って前面に巨木を配置する。富士は単純化されて抽象的であり,巨木は細部にこだわって写実的に描写されている。そこに大入道を潜ませた空想的な積雲(後日『大入道』の作品を紹介するとき,そこで述べる)と,さらに幻想的な龍雲が顔を覗かせている。

3: 富士の山肌が暗い茶色から白色へ,白色から濃紺へとぼかしを加えながら変化している。現実にはありえない配色だが美しい。

4: 実際の三嶌越にこのような巨木はなかった。北斎は『北斎漫画』に同名の『甲州三嶌越』という作品を描いているが,そこにも出てこない木だ。どうやら,ここから離れた所にある有名な杉の巨木を画面に移植したものらしい。

5: この木は杉の木だといわれているが,私には檜の樹肌と葉の付き方に見える。大木になると杉はこのような姿をとるのだろうか。

6: 巨木の周りで旅人が手をつないでいるのが面白い。旅人たちが木の大きさを測ろうとしていると解説されている。しかし,人は木の太さを測るとき,手をつなぎバンザイの形に挙げたりはしない。横に伸ばすはずだ。

7: 巨木の根元が板根(バンコン)のようになっている。板根はロケットの垂直尾翼のような形をしている。図2は私がエクアドルアマゾンで見た巨木の板根だ。板根にはもっと大きなものがあるが,私は日本では沖縄以外で巨大板根を見ていない。

28.3エクアドルアマゾン板根
                               図2

8: 女が荷を背負って歩く道が,巨木の後を回って手前の道につながっている。しかし,女とバンザイをする男たちの間にはほとんど標高差がない。なぜこの道は遠回りについているのだろうか。

9: 巨木の左に旅人風の男が腰かけて一服している。隣に柴の束があるが,男の荷物には見えない。北斎の冗談だ。

10: 龍雲は右になびき,積雲は左に傾いでいる。峠と山頂で風向きが違っている。実際にもある現象だろうが,ここでは画面に動きを加える北斎の工夫に見える。

11: 富士の稜線が『御厩川岸より両国橋夕陽見』の両国橋の曲線とほぼ一致する(図3)。

28.5甲州三嶌越富士と両国橋
                               図3

巨木の写実性と富士の抽象性,藍色と茶色と白色の対比と見事なグラデーションの意匠が斬新だ。また,富士の全貌を見たいという鑑賞者の期待を裏切り,さらに画面の均衡を躊躇なく破壊する北斎の芸術性が凄い。



(29) 相州仲原(そうしゅうなかはら)

 

相州仲原は現在の神奈川県平塚市にある。

ここは大山詣の参道で,農民の他にも行者や商人が行き交っている。後方には右に大山と中央に稜線を長く伸ばした富士が美しく描かれ,稜線には不思議な形の雲がかかっている(図4)。

29.1相州仲原
       図4

1: 富士の左稜線が長い。その稜線から白いすやり霞(=対象間にある空間と時間を超越させる約束事が成り立つ。画面の転換に用いられる日本画の技法)が右側だけに伸びているのが特異であり美しい。

2: 左裾野上空にかかる白雲がかかる。白雲は切り抜かれたようになって,青色の空が透けて見える。青空はいかにも不自然な形をしており,両手両足を水平に上げて走る大入道のように見えないだろうか。

3: そして,私は大入道の両手両足を隔てる細い白雲に2頭の龍を見る(図5の赤矢印)。矢印の先は頭部に見えるから,2頭は向き合っている。

29.2相州仲原入道雲と龍
                             図5

北斎がこの極めて特異な形の雲を実際に観察したとは考えられない。これは北斎の作為であり,形はタツノオトシゴのようだが,龍として描かれたものだろう。『富嶽三十六景』には富士と龍を関連付けて一緒に描かれた作品が多いので,本作品に龍を見てもおかしくはない。

さらに,白雲を不自然な形に切り抜く大入道像に,私はルネ・マグリッドの『大家族』(図6)と同類のものを連想する。『大家族』の暗い海原の上には,嵐を予感させる雲が沸いている。その背景の曇り空をハトの輪郭に切り裂き,輪郭の内側には青空と積雲が明るく描かれている。海と曇天は不気味で写実的,鳥は非現実的であり,シュールな作品だ。

大家族
図6

本作品『相州仲原』も『大家族』と同じように,画の前面には人々の日常が写実的に描かれている。そして後方の美しい富士の稜線に白雲がかかり,雲を切り抜いて大入道の輪郭が現れ,輪郭の中には濃い青空が見える。シュールで美しい絵だ。これを江戸の浮世絵師がやってのけた。

4: 6人の人物のうち4人が同じ足運びをして歩いている。また,天秤棒を担ぐ行商人と行者の2人は同じ足構えで立ち止まっている。

5: 右端の男が背負う荷物の背に版元西村屋永壽山に巴の屋号がある(図7)。この男,路肩に足を乗せていて,踏み出すと街道から逸れて田の中に入ってしまう。

29.3山に巴
                                       図7

6: 西村屋の男は雨傘を背負っている。旅慣れているのか,他に見ない珍しい旅支度だ。

7: 天秤棒を担ぐ行商人が片方の箱の蓋を開けて何かを取り出そうとしている。売込みのようだが,誰に何を売るつもりなのだろう。状況的にかなり無理がある。

8: 女が鋤をもって野良仕事に出かけようとしている。鍬の持ち方が危険だ。これなら鍬の刃が後ろ足に当たる。

9: 女は鋤の先に籠をぶら下げている。籠は鋤の柄の先端部近くに引っ掛けられている。女が鋤を持つ部位が支点となるから,重い籠なら力学的にかなり無理がある。女が力持ちなのか。

10: 巡礼の親子がいる。父親の笠が小さく,子どもの笠が大きい。

11: 子どもが荷物を背負っていない。巡礼の旅なら親だけでなく子どもにもそれなりの負荷をかけただろう。

12: 川の中で男がたも網で何かを捕っている。しかし,川は男の踝あたりまでしか水かさがなく,魚はたくさんは棲めない。漁師だとしたら,こんな小さな川で生業になるほど十分には魚を捕れそうにない。それに,川の中央で魚を捕るより岸に近いところで捕るだろう。

13: 橋の橋脚が高いのは舟が通るからだろう。実際,北斎の『富岳百景』の『鏡台不二』には似たような橋の下をくぐる舟が描かれている。しかし,本作品の川は舟が通るには浅すぎる。

14: 大山詣の参拝は例祭が行われる627日から717までに限られていたという。その時期にしては人物が皆厚着している。

15: 道の向こう側には黄色の空間が広がっている。緑色の草が散在していてまるで荒れ地のように見える。川が近くにあって平坦な地形だから,水田があって当然だと思われるのだが,どうだろう?

また,雀を脅す音を出す鳴子が家の近くにあって田?にない。

16: 富士の左稜線が『御厩川岸より両国橋夕陽見』の両国橋の曲線とほぼ一致する(図8)。

29.5相州仲原両国橋
                               図8

 

この画に小さな龍が出てきているが,他と比べてそれほどインパクトがある画面構成ではないように見える。しかし,画面下段の写実的現実的世界と上段の美しい空想世界が統合されているのが凄い。

 

 

(30) 諸人登山(しょにんとざん)

 

富士山頂のお鉢巡りのようすが描かれている。画面下段右には登ってくる人々が,下段左には登山道に座り込んでいる人々が,上段右には岩室に休む人々がいる(図9)。

30.1諸人登山
       図9

 

1: お鉢巡りは富士の火口を取り巻く火口壁の上を歩いて回るものだ。『富岳百景』の『八堺廻の不二』では,お鉢は円く描かれている。しかし,本作品の火口の形は円くない。火口は狭いうえに岩(図10)がせり出して溝となってうねっているのが変だ。しかし,北斎が火口本来の形を無視したのには理由があるはずだ。

30.2諸人登山番号
             図10

2: このような地形は富士にないので,ここを富士山頂ではないとする人もいる。しかし,諸人が命がけで登山している様子を見る限りお鉢巡りであると考えた方が妥当だ。では,北斎はなぜこのような地形にしたのだろうか。

その理由として,前述来の富士と龍の連想から,私はお鉢の中の白い帯状の雲が龍雲だと考える。左側の雲()には黒線の輪郭や模様がなくどこか優雅であり,細いので尾になる。右端あたりのごつごつした雲()が頭部になる。雲には鱗のような小さな突起が多数ついていて,その様子は『遠江山中』や『甲州三嶌越え』の龍雲に似ている。

龍雲の形をつくるためにお鉢の形を変形させたのは独創的でいかにも北斎らしい。富士山頂のお鉢に龍が宿ることは北斎にとっては自然な発想であっただろう。この見方に反対の方も多いと思うが,それならば,なぜ富士火口が溝状になっていて,そこに白雲が帯状にうねっているのかを説明してほしい。

3: 山頂にいるので,富士全体としての姿がない『富嶽三十六景』中唯一の作品になっている。

4: お鉢巡りの行者が多数描かれている。下段右には登ってきている4人がいるが,中2人はクローン()だ。左側には疲れきった5人がいる()。衣装の細部は異なるが,3人はうずくまった状態から杖をついて立ち上がり歩きだそうとしている()。むしろ3人は別人ではなく,一連の動作をする一人の人物のようだ。

5: 人物全員がお鉢に比べて大きすぎる。

6: 中段中央に2人の行者が岩室を目指して歩いている()。彼らが向かう道はわかるが,どの道を登ってきたのかわからない。左手のピンク色の岩()はお鉢の切り立った崖なのだが,行者を中心にみると突き出しているように見える。北斎の工夫だろう。

7: 7人の行者の菅笠が円として描かれている。この円をつなぐとひしゃく型をした北斗七星の形になると考えられている。右端2人(の右)の笠を結ぶ線を伸ばすと岩室に届く。すると,位置的には岩室が北極星に相当し,岩室が動かないことも北極星たりうる理由になるだろう。

8: 岩室には笠をぬいだ行者が多数描かれている()。『富嶽百景』にある岩室と比べても行者の数が多すぎる。皆笠を外して疲れ果てたようすでうなだれているのが変だ。

9: 右にうずくまっている5人の行者()は,おそらく岩室を脱出して来たのだろう。岩室に近いほど疲れているようで,遠いほど元気を取り戻し,歩き出そうとしている。しかし,岩室の行者たちとこの5人がなぜ疲れているのかがわからない。神秘体験をしたためか,あるいは高山病なのか,北斎は想像の種子を提供してくれている。

10: 右に一番遅れている行者がいる。その左腕の衣装が白・青の順に描かれている()。他の11人の腕とは違っていて変だ。

11: 中央下段に梯子がある。段の間隔が不ぞろいだ()。

12: 疑問だが,行者たちは荷物を持たない。彼らは水を入れた瓢箪や食料を持たずに富士に登ったのだろうか。

13: 岩の描き方が,中国山水画の皴法に似ている。皴法を自分のものにしている北斎の技量の卓越性がわかる作品だ。

14: 上段左,岩に接して青い空が下にあるように描かれている()。この場所が雲よりもかなり上方にあることを示す北斎の描写力だ。

15: 岩室がおかしい。まず,本作品にあるような大きな岩室が山頂にあったのだろうか。八合目にがあったと江戸時代の本に記載されているが,それが岩室かどうかは書かれていない。仮にあったとしても,本作品の岩室を取り巻く壁は上と左が平らで(),入り口の形が四角になっていることなどから,人工的であり,しかも大規模な工事を要するものだと考えられる。岩室は機能面からみても,入り口が大きいことから雨風除けにはならない。人工物なら入り口をもっと小さくするか雨風よけの構造を作っただろう。

16: 右端の岩室の場所に,それもわざわざうずくまる行者たちの体の上に北斎は『富岳三十六景 諸人登山』のラベルを印刷している()。また,落款は左端の空の部分()に入れている。ラベルと落款の位置が違うのは本作品だけだ。なぜだろう。

 

富士の火口に龍が宿ると想像するのは自然なことだ。そして,画の構成としては,通常の円いお鉢の底に龍雲を立ち昇らせるより,本作品のようにお鉢の形を溝状に変えてそこに龍雲を潜ませた方が斬新でインパクトがある。たとえ白雲を龍と見ない場合でも,お鉢のうねる溝とそこに潜む白雲は十分に神秘的だ。