カテゴリ: 雑多録

2か月ほど前から源氏物語を読み始めた。物語は小学館新編日本古典文学全集のもので全6巻ある。これを区立図書館で日に30分ほど読んでいる。今のところ挫けることなく読み続け,第1巻(桐壺から花宴)を読み終えた。驚いたことに,そこに出てくる女性たちの名前を覚えている。何に驚いたかといえば,記憶力低下が何十年も前から始まり,特に人の名前が覚えられない私だからだ。私は世界の長編古典をいくつか読んでいるが,みじめなもので,苦労して読んだはずの世界最長叙事詩「マーハバラータ」も,今は見たことがあるとしか言えない状態にある。それなのになぜ源氏物語では女性の名前だけでなくいきさつまでも覚えているのかといえば,面白いからだ。これまで私は日本の古典をほとんど読んでこなかった。古文は文法・単語と面倒だし,内容もピンと来ないから読めないものと端から諦めていた。しかし,今は源氏を読み始めて良かったと思っている。

全巻読み終えてから感想文を書くべきかもしれないが,書くことで考えをまとめ,さらには今後の読み方の幅を広くすることができるだろうから,こうして書くつもりになった。

 

 

(1) 感想の概要

まず,これまでの感想の概要を述べる。うちいくつかについては後述する。

 

① “光源氏災禍論”: 花宴までの光源氏は,酷い男に尽きる。光源氏は関わる女性にとって災禍であり,災禍を経験した彼女達がその不条理にどのように立ち向かい,いかにその後の人生を送るのかという話として源氏物語を読むことができる。

 

② “オペラ的な,災禍に立ち向かう平安女性群像論”: 物語の筋立てはオペラに似ている。オペラとしてみれば,主人公は光源氏ではなく,女性たちになる。

 

③ 源氏の身勝手な主張: 女が成長するには“あわれ”を知らなければならない。あわれを知るには好きものの私に抱かれるのが一番。私との恋で和歌が巧くなる。

 

④ 平安男性の思考がわかりにくい

 

⑤ 物語中に絵の話が多い: 視覚芸術を意識している場面が多い。例えば,画論が帚木にある・少女の紫に画を見せて騙す・景色を表現する箇所が多い・月を愛でる・源氏の青海波の踊りは動画的だ。

 

⑥ 光源氏と貴人女性の命婦との関係 光源氏は命婦(女官)を仲立ちに貴人女性に近づく。命婦たちの仲立ちするメリットに,彼女たちが光源氏と関係を持つことがあるだろう。

 

⑦ 源氏物語はいかようにでも解釈できる多様性をもつ物語: 古文をきちんと読めていない私の感想については,源氏愛好家の方々からすれば,“ふざけるな”だろうが,この物語が幾様もの解釈や読む楽しみを可能にしていることには異論ないだろう。

 

⑧ 私にも源氏物語が読める

 

⑨ だから,源氏物語を推奨する。

 

 

(2) 上記の幾つかを述べる。

 

①について: 光源氏は女性たちにとって災禍である。

光源氏の酷い男ぶりが際立つ。桐壺から花宴までの八帖には,恋の対象となる主要な女性が9人いる。その中で,レイプが3回(空蝉・軒端の萩・朧月夜),不義密通2回(空蝉・藤壺中宮),10歳の少女拉致監禁飼育1回(紫)ある。朧月夜の場合,光源氏は権力をかさに着て「騒いで他の人が来たとしても,私の場合通用しません」などという。

その性交行脚を決行する際の状況がひどい。例えば夕顔の場合,光源氏は自分にとって最愛の乳母の見舞いに来ていながら,乳母の息子を使って夕顔にちょっかいを出している。父帝の后である藤壺に恋い焦がれながら他の女性に手を出すのはしょっちゅうだ。その藤壺に焦がれるのは彼女が光源氏の母の故桐壺女御に生き写しだからであり,藤壺の姪に当たる紫の君を拉致監禁飼育するのは彼女が藤壺に似ているからだ。紫は代わりの代わりとなってしまう。つまり,光源氏にとっては藤壺と紫は,心の交流を求めない“物”として扱われている。

だから,何人もの女性にとって,光源氏は不条理な災禍のようなものだ。この不条理こそが悲劇の源泉であるとしたのはギリシャ悲劇だ。どんなに正しくとも,自分に因果がなくても,英雄や高貴な女性たちは悲しみの極に陥る。そんなわけで,私には古代世界のギリシャと日本で不幸のあり方が似ているように思える。不条理に出会った女性たちがどう生きたのかを源氏物語の主題として考えると,光源氏は災禍を振りまくだけの引き回し役となる。

花宴後の全体の粗筋をみると,光源氏が,成長して政治世界で権力闘争をし,また,孤独に苦しみ,勝手極まりないがやがて自分の悪行を悔いるらしい。凄い物語ではないか。今後の進展が楽しみだ。

 

②について: 災禍に対して平安女性はいかに対応するかという女性群像論だ。

源氏物語はオペラの筋立てに似ている。ほとんどの古典オペラでは主役テノールは軽薄で不実だが美しい声の持ち主であり,深い情感を込めて歌うことができる。テノールに翻弄されるソプラノ(ヒロイン)は一途であり,不実なテノールを攻めることなく恋に生きる。観客は,テノールが軽薄でありながら見栄えよく,その歌が心に届くほど,ソプラノの歌に涙する。これが源氏物語筋立てとそっくりだ。となると,これは女性主役の物語ということだ。当時の女性読者の需要に従ったのだろう。平安貴族の女性達はさまざまな男性経験を強いられ,それぞれがその体験を自己肯定のために消化しなければならなかった。源氏物語の女性達は光源氏という災禍を経て,また,一部の女性達には憧れの光る君との恋を経て自分の在り方をそれぞれ決める。その多様さが読者となる女性達の共感を呼び,あるいは参考になったのではないか。

 

④について: 私にとって半世紀ぶりの古文だから,わからない箇所が多いのは当然として,わからないのは,単語や文法などだけではない。登場人物たちの思考があまりにも理解しがたい。とくに平安超上流男子貴族のそれだ。例えば,光源氏の隙だらけのアバンチュール,異様な女性遍歴,彼が自分自身を納得させる思考(自己の肯定あるいは欺瞞),頭の中将の女性の分類などがある。それと比べると,下流の男性貴族の考え方はわからないでもない。上流階級の男の恋愛観は一夫多妻の時代だから,今と異なるのは当然として,葵の上や六条御息所の嫉妬や心の動きを見ると,女性のそれは一途であり,嫉妬し,また,まじめな女性ほど嫉妬する自分に悩み,光源氏に誠実さを求めるなど,どうも今とさほど違っていない。

 

⑥について: 光源氏が父帝の后である藤壺中宮と関係を持てたのは命婦(女官)がいたからだ。命婦は源氏の一途な思いを知って仲立ちをしたと式部はいうが,それだけだろうか。仲立ちはあまりにもリスクが大きい反面,そのメリットが見えない。だから,文中には書かれていないメリットは源氏と関係を持つことではないか――おそらく平安時代の読者には自明のことだったのだろうと想像する。さらに想像を膨らませて一般化すると,通例,高貴な女性に近づくために,平安貴公子たちは命婦たちとの関係を持った。高貴な女性には言い寄る男がいるが,おつきの女性たちにはどうだろうかと考えると,彼女らも性的欲求を処理しなければならないから,男の従者たちと関係したこともあろうが,男とまず関係したと考える方が納得できる。その男たち(光源氏や頭の中将)は56歳の老女(源典侍)とも関係してはばからないのだから,身分が下とはいえ若い命婦との関係を楽しんでおかしくない。さらには,命婦たちの主に対する悪意が感じられる箇所もあって面白い。読者が女官の場合(多かったに違いない),彼女達にとっても源氏物語の多様な恋は自分達の経験と照らし合わせることができ,想像を膨らますことができたため,人気があったのではないか。

 

⑧について: 高校古文の知識があれば,この物語誰にでも楽しめる。小学館の源氏物語は1ページが3段組になっていて,上段に単語解説,中段に原文,下段に現代語訳がある。私は原文と現代語訳を読みながら読み進めている。古典を読む場合,私は途中で諦めないことを是としている。決して良い読み方ではないのだが,わからない所があれば読み飛ばす,見るだけでもいいから先に進むという方針で,じっくり読むのを放棄している。するとどんな古典でも我慢すれば最後まで読み(見)通せる。むろん理解は浅くなるが。

 

yahooブログ閉鎖のため,こちらに引っ越してきました。

主に,絵画などの鑑賞記と旅行記を書いています。

すでに『ラスコー展「黒い牝牛」「井戸の場面」(鑑賞)』と『』と『(追記)ラスコー洞窟壁画「井戸の場面」について 新知見』の3報で「井戸の場面」について考えたことを述べているのですが,画を見ていたらバイソンとケサイと鳥と鳥人間が,点と線で画中にがんじがらめになって固定されていることがわかりました。
そこで,この記事『ラスコー洞窟壁画「井戸の場面」について 新知見をもとに考えたこと』にそのことを組み入れることにしました。興味のある方はご覧ください。

(1) 気になること

イエスとイスカリオテのユダとのことで気になることがある。キリスト教徒でもない私の余計なちょっかい出しだが,今年2016年イスラエルを旅行したこともあって(『イスラエル旅行記』参照),考察してみたい。

信者ではない私には,信者との決定的違いがあって,それは,福音書の記述内容が一言一句すべて事実であるとは考えていないことだ。福音書が成立したのはイエスの死後百年以上経った時代であり,複数の記者の加筆修正があったものと考えられている。なぜ加筆修正があったかというと,実際の布教にあたって必要であったからだろう。そのため,新約聖書にはイエスの言行を正しく伝えている部分もあるが,福音書記者による間違い・思い込み・忘れ・創作・意図的な情報操作が混入していると考える。

私が一番気になるのは,ユダが最後の晩餐にあずかっていることだ。最後の晩餐はカトリック教会の最も重要な祭儀であるミサに直結する。ミサは感謝の祭儀というが,ミサに授かるものが神とともにあることを示すものであり,イエス(復活後はキリスト)を信じる弟子(復活後は信者)を聖別し祝福する儀式だろう。さらに,イエスはユダを含めた弟子たちの足を洗っている。足を洗う行為はイエスによる弟子たちに対しての献身であり,祝福である。しかし,祝福された当の弟子たちは,捕縛のときその場を逃げ去り,一番弟子パウロは問われて3度イエスの弟子であることを否定した。それなのに,イエスの弟子たちへの愛は変わりなかった。イエスは迷える羊たちの牧者であるからだ。その弟子たちと等しくユダが祝福されたことになる。ユダもイエスの迷える羊に違いない。

そうだとすれば大きな矛盾が生じてくる。その矛盾を避けるために,ヨハネ福音書にはユダが晩餐の途中で出て行ったと書かれてある。しかし,そのヨハネ福音書にもユダが足を洗ってもらったことは書かれている。

どうしたことかこの祝福の視点からのユダとイエスの関係の説明はないように思う。
読者には非信者の方が多いだろうから,少し説明を加えながら論じてみたい。



(2) 簡単な説明「最後の晩餐からイエスの刑死まで」

最後の晩餐とは,イエスが捕まる前に12使徒とエルサレムのシオンの丘にある家でとった食事のことだ。その家は道で出会った水がめを運ぶ男のものだった。男は部屋を用意してくれていた  (その部屋の階下に,どういうわけかダビデ王の墓がある(『イスラエル旅行記6/9』参照)。ダビデ王はあのダビデ像のダビデだ。イエスはダビデの家系に属する)。 晩餐後,イエスはオリーブ山麓のゲッセマネ園に弟子たちと行く。そこでイエスは祈りの時を過ごす。やがてユダヤ教祭司と長老たちと兵士たちが裏切り者のユダに先導されてイエスを捕まえにやってくる。イエスが捕縛されたとき,弟子たちはみな逃げ去った。イエスは祭司長の館に連行され,地下牢で鞭打たれ,天井から吊るされた後,ローマ総督ピラトの前に引き出される。イエスは磔刑を言い渡されて,ゴルゴダの丘で他の罪人とともに刑死する。そして,3日後に復活する。イエスが有罪になったと知って,ユダは自殺する。

ユダはキリスト教の中では最も悪質な裏切り者として扱われているのだが,疑問を持つ人たちもいる。「全能であるイエスが裏切りを知らなかったはずはなく,ユダを正しい道に導かなかったのはなぜか」ということと,「ユダの裏切りは彼の意志によるものか,それとも操作されたものか」等,不可解であり,しかも本質的な疑問が生じるのだ。もっともだが,どうも適切な答えがないようだ。



(3) 私の疑問。

上記以外に,私には個人的疑問がある。

① 最初の疑問は,前述のようにユダが祝福されたことだ。晩餐ではイエスの肉と血にあたるパンとワインをいただき,さらに足を洗ってもらっている。イエスがユダの裏切ることを知っているとすれば,まことにおかしなことになる。

② 福音書にはイエスが「この中に私を裏切るものがいる」というが,福音書には裏切るのがユダだと他の弟子たちにもわかるようにイエスが発言している。それなら,他の弟子たちはユダの行動に気を配り,もし食事の途中でユダがいなくなったら,裏切りを怪しんでイエスを逃がすなど別の対応の仕方があっただろう。少なくてもゲッセマネ園でユダがイエスに近づくのを阻止したはずだ。それがない。
福音書を読んでいくと,それまでのユダは他の弟子たちから信頼されていたようだ。少なくても,イエスが示唆しても弟子たちはユダを疑うことがなかったのだから,その信頼はかなり厚かったのだろう。こんなことはあるのだろうか?

③ 裏切ったとすれば,ユダはイエスと弟子たちの集団から一度離れなければならないのに,イエス一行がゲッセマネ園にいることをユダが知っているのはおかしい。また,挙動不審のユダが見当たらないとすれば,イエスと弟子たちはユダが予測できないような場所に移動するはずだ。

④ イエスは出身地ガリラヤ地方では有名人だった。過越し祭(ユダヤ教の重要な祭り。出エジプトでの奴隷状態からの解放を神に感謝する)にはたくさんのガリラヤの人たちがエルサレムを訪れていたに違いない。上京者たちの中には,イエスを心憎く思っている上層階級の者もたくさんいただろう。また,福音書にイエスはエルサレムでも人気があったというような記載がある。そうであれば,ユダヤ教祭司と長老たちの中にもイエスを見知っていた人物がいてもおかしくない。だから,ユダヤ教の祭司と長老たちは,自分たちだけでイエスの人物特定ができたはずで,ユダにお金を払ってまで人物特定させる必要はなかった。

これらのことから,福音書における最後の晩餐からゲッセマネ園でのイエスの捕縛の内容は怪しいと思うのだ。
そこで,まあ歴史的事実と考えられるものだけを上げてみる。



(4) まあ歴史的事実だろう事

イエスには12人の主要な弟子がいた。イエスは彼らを信頼し,彼らは相互に信頼し合っていた。
イエスの運動は,無視できないほど大きな力となって,ユダヤ教の祭司たちの反感を買っていた。
過越しの祭で,ユダヤ人たちがエルサレムに集まったとき,イエスと弟子たちもエルサレムを訪れた。
エルサレムのシオンの丘で,イエスは弟子たちと晩餐をする。
晩餐の場所から移動したゲッセマネ園で,イエスは祭司たちに捕縛される。
そのとき,ペテロと他の弟子たちは逃げてイエスを見捨てた。
イエスは刑死し,ユダは自殺した。
イエスは3日後復活されたと弟子たちが主張した。

となる。



(5) 3つの想像的解釈

これらから考えてみた。
私は,基本的にイエスがユダを愛していたことを念頭に置いている。また,私はイエスとユダの共同行為を認めない。イエスの行為は必然的なものであり,ユダのそれも同様であるとする。そうでないと,イエスはユダが裏切ることを放置し,その裏切りによって復活を意義あるものにしようとしたことになる。つまりイエスがユダを裏切ったことになり,最も不都合なことになるからだ(この可能性については,解釈③で触れた)。
次の3通りの解釈のいずれにおいても,イエスがユダを愛して祝福したこと,そして自殺後のユダの救済が満足されることを目指す。


① 裏切り者でないユダは,イエスの死に耐えられずに自殺した。そして,その自殺を他の弟子たちが誇張歪曲した。

上記のように,ユダヤ教の祭司や長老たちはイエスの人物特定をユダ以外の人物にさせて捕縛することが可能だった。だからユダの裏切りは必要ない。ユダの裏切りには金がかかるので,私には金をかけてまでの利益が何かわからない。強いて云えば弟子の一人がイエスを信じる間違いに気づいてユダヤ教本来の道に立ち返ったことをアピールするために,祭司たちはユダを必要としたことだろうか。だが,イエスの死後にユダヤ教側からのそのような働きかけは報告されていない。

しかし,その後のキリスト教主導者たちにはユダの裏切りが必要だったのではないか。キリスト教の成立にはイエスの復活が中心となり,復活には復活前の裏切りと復活後の回心が劇的な意味を添える。だから,弟子たちは自分たちの裏切り(イエス捕縛時に逃げたこと)をユダのそれによって希薄させた意味合いもある。
しかし,こうとも考えられる。キリスト教主導者たちはむしろユダに汚名をこうむってもらうことにしたのではないか。ユダはイエスに心酔していたし,それ故に自殺したのだが,イエスの教えを広めることにつながるのであるなら,ユダは自分の汚名を積極的に背負ってくれると主導者たちが信じたのではないか。
だから,後のキリスト教成立のためにユダを利用する形になったことは,イエスに責任があるのではなく,人間側にある。

この解釈はあり得る。ユダの罪は自殺だけになり,イエスのジレンマもなくなる。ユダの自殺は,イエスへの傾倒の激しさと人間的弱さゆえに,イエスに許されるものだろうから,ユダも救済される。


② ユダは実際に裏切った。人間であるイエスは裏切りを予測できなかった。ユダは迷う。ユダの精神は何かにとりつかれたようになって揺らぎ,その揺らぎのピークでユダはイエスを否定した。

この場合のユダの裏切りとは何かというと,イエスから一時的に離反したことだろうか。ユダはもともと真面目なユダヤ教徒であった――基本的に弟子たちはみなそうだったろう。しかし,ユダは批判的精神と理論的思考を持つ自主的な人物であったために,イエスの言動をペテロたちのように何の疑問もなく受け入れることができなかった。悩みぬき,迷い続け,その結果,シオンの丘の晩餐の部屋からゲッセマネ園へは皆と一緒に移動しなかった。他の弟子たちはイエス捕縛時にユダがいなかったことに気づき,ユダを裏切り者として非難する。イエスから一時的に離れただけではあるが,確かに裏切りである。ユダは自分の離反とイエスの死を悔いて自殺する。しかし,この裏切りはペテロのそれより軽い罪だろう。ペテロが許されるならユダも許されるべきだ。
前述したように,ユダヤ教祭司たちからすれば,ユダの人物特定は無用なのだから,ユダはイエスを売ることはなかったと考えられる。

十字架にかかるのは人間でなければならない。神が死ぬことはないからだ。福音書によると,イエスは十字架上で「わが神わたしをお見捨てになったのですか」「私は渇く」等と神に不平を述べている。ここに人間イエスがいる。これが史実かどうかはわからないが,少なくても福音書記者にとって,イエスがそのようなことを言ってもおかしくないと認識されていたと考えるべきだろう。刑死した時にはイエスは人間だった。だから,ユダの精神の揺らぎと裏切りを予測できなかった。

これからは都合のいい解釈なのだが,イエスの言動は時として人間離れした深遠なものになる。それがどうして可能なのかというと,通常,これは芸術活動でよく言われるような,“何かにとりつかれて”と解釈できるだろう。ソクラテスならダイモンに,キリスト教なら霊にとりつかれて,イエスは人間の力を越えた言動を行った。とりつかれるのは一時的な現象でありすべての分野ではなく限られた行為に対してのみ起こる。だから,予知的な力は働かずに,イエスは予見できなかった。イエスはユダの裏切りに責任はないということになる。

もし予見していたとすれば,それは父なる神しかいない。その神もユダの自由意志を極力尊重された(これは人間存在の肯定である)。自由なユダはその批判的精神と理論的思考と自主性の高さのゆえに迷った。その迷いが感情の揺らぎのピークに合って,離反の形になった。
宗教的には,それを運命的と捉えてもよい。ユダの裏切りは運命的に決まっていたものであって,彼自身にはどうしようもないものだったと考えると納得しやすい。この場合の裏切りは,神の摂理がユダの人間としての弱さと特質を用いた形になる。

ユダの罪は復活したキリストに許されるレベルのものだろう。付随的ではあるが,何といっても,ユダという自分が愛する人間の裏切りの罪をイエスが背負う重要な意義があった。その意義を自由意志と自己責任で果たしたのだからユダは大切な役目を担ったと考えられる。


③ ユダは実際に裏切った。イエスは裏切りを予見し,その意味と必要性を理解していたがユダはそうではなかった。イエスはユダに「しようとしていることを、今すぐするがよい」と告げる。ユダは迷う。彼の精神は何かにとりつかれたように揺らぎ,その揺らぎのピークでユダはイエスを否定した。

ユダのついては前述の②と同じになる。ただし,福音書によればイエスから「しようとしていることをせよ」と否定されるべき行為を肯定されているので,むしろ迷いはいっそう大きかっただろう。それだけユダはヒトとしての苦悩を背負ったことになり,イエスの死を意味づけることになる。イエスは身代わりに人の罪を背負って迷える人々を救済するからだ。

問題はユダではなくイエスにある。予見できるイエスは常に正しい行為の主体である神となるからだ。

人間イエスは常に霊的なもので満たされていた。だから裏切りを予見できた。すると,イエスは迷える羊であるユダを救いに出かけなければならない。しかしこれまでの常識的考えでは,イエスはユダという1匹の迷える羊を放置し,迷いのない羊たちの元にとどまったことになる。ユダという放蕩息子を愛しているイエスとしては,これはあり得ない。

では,どう解釈したらよいのか。

1つには,人間の自由意志の尊重がある。イエスはユダが裏切ると知っていたが,ユダの自由意志に委ねたのだ。これは人間の自由意志を究極的形で肯定している。

1つには,イエスが死ぬときだけは主体的に人間として死んだことがある。前述のように,福音書は,イエスが十字架上で人間としての弱みを訴えながら死んだことを報告している。
すると,信者には絶対に受け入れがたいことだろうが,次のように考えられる。
人間であるならばイエスも罪を犯す。人間という他者との関係から成り立つ動物が何らかの社会的行動をすると,すべての関係に良く働くことはあり得ない。必ず誰かに不利益や不満をもたらすことだろう。実際,イエスはユダを正しく導けなかったし,多くのユダヤ教徒――彼らは頑なではあるが律法に従っている――を怒りや憎しみの罪に誘った。すなわち,イエスは人間として自分の犯した罪についても苦しみ抜いて死ななければならなかった。

このように考えれば,イエスは人類だけではなく御自身とユダの罪を十字架上で贖ったのであり,御自身をも救済されたことになる。



(6) 追加の考察

今のところ,どう考えてもユダがユダヤ教祭司長にイエスを銀貨30枚で売った話は納得できない。
そこで,このような出来事あるいは話が生じることで関係者が得るメリットについて考えてみる。

イエスにはない。むしろ,知っていて放置したと非難されるデメリットがある。

ユダにはない。彼は反省して自殺をしたと福音書にあり,実際に死んだのだろう。

ユダヤ教祭司長にはない。前述のように,裏切りという“汚い”手段を用いなくても,自らイエスを捕縛できたので,手を汚すことはない。祭司長達はキリスト教徒が非難するような悪に染まった人々ではなく,ユダヤ教の律法(それはイエスの基盤である)に従って生きていたと考える方がよい。

一方,他の弟子たちと福音書記者たちにはそのメリットがある。イエス復活の後,彼らは活発な布教活動を初める。そのとき,ユダの裏切りがあれば,説話の題材として大いに役立ったことだろう。キリストの受難,愛が最悪の形で裏切られること,サタンの関与,ユダの欲望とその天罰など,ドラマチックに扱うことができ,それは人々の関心を買ったことだろう。だから,ユダに裏切りをしたことにしてもらった。
そのころ,布教されたのはどんな人たちだったのだろうか。ユダヤ教の上層階級には属さないだろう。むしろ貧しく教養のないその日暮らしの人々だったのではないか。だから,ユダの裏切りの話が心に響き,イエスの偉大さが際立ったと思われる。――こんなことを書く私だが,ちゃんとわかっているつもりだ。人々はイエスの話を理解し,その話を求めていたのだから,彼らが理解力・感性に優れ,どう生きるべきかを真摯に求め考えていたことを。

キリスト教揺籃期の間はユダの裏切りの話には問題がなかった。しかし,後世の神学者たちはそうではなかった。彼らには福音書は絶対的なもので,記者の作為など想像もできなかった。そこで,矛盾が気にかかる私のような者が出てくるのだ思う。

                完


基礎科学は何の役に立つのかと問われることが多い。しかし,当事者である科学者はあまりこの手の話をしない。


2015年度ノーベル物理賞を受賞して,梶田教授が研究の意義を訊かれ,「この研究というのは、何かすぐに役立つようなものではなく、人類の知の地平線を拡大するような研究を研究者個人の好奇心に従ってやっているような分野」と,また,2008年度ノーベル物理賞受賞者の益川名誉教授は「われわれの仕事が多少なりとも役に立つとすれば光栄」と述べられた。


スーパーカミオカンデが事業仕分けの対象となったとき,スーパーカミオカンデの実験代表者鈴木洋一郎氏は,「基礎科学(基礎科学)は『わからないこと,不思議なことを探索して,真実を知る』ということが本質で,何十年か経った後に,思わぬところで役に立つことがある」とされている。


どうも,先生方は「役立つ」ことに気をつかい過ぎておられるのではないか。


2010年に日本学術会議が「日本の展望-学術からの提言2010 提言『日本の基礎科学の発展とその長期的展望』」を発表している。その「学術・科学の基本的考え方と社会的役割」の中から抜き取ってみると,「学術の基本的動機としては事実の探求,真理の追求を目指すことである」,「学術体系の発展とそれを支える知的資産の集積は,人類固有の,かつ必然的な活動である。学術はそれ自身が人々に潤いと喜びを与えるものであり,生活に不可欠な存在である。また,古くは人類を自然の脅威や迷信から解放し,現代においては国家・社会の日々の営みを司る基盤を与え,さらに将来の社会改革の発端を与える存在である」,「第一に科学を発展させて人類の自然理解や人類理解に貢献することに加え,広い意味での社会の関心や要望,そして信頼と付託に応えていくことにある」とある。提言のいう通りだが,やはり,目に見える形ですぐに生活に役立つのかという世間に対する遠慮があるようだ。


人類の歴史をみると,巨大な脳をもった人類は言葉を獲得したことで,言葉で他者と関係を構築し,言葉で自分と向き合うことができるようになった。人類は世界の成り立ちに疑問をもち,それを探求し,そこから得た知識を言葉で他人に伝えた。世界についての知識を自分の体験でなく,言葉を介して得るのはとても効率がいい。探求を続ける中で基礎科学が生まれた。基礎科学は言葉(数式は言葉に含まれる)によって世界を客観的に表現する「人類固有の必然的活動」だ。基礎科学はその強力な探求によって,世界についての確実性の高い知識を,少数ではなく多数の人々に言葉を通して提供する。


ここで,基礎科学(理学)と応用科学(工学・医学・農学・薬学等)の成果を比べてみる。基礎科学の場合,成果は言葉で表された論文の形で発表されて全世界の人々に伝えられる。応用科学の場合,成果は確かに論文となることもあるが,それはすぐに物に変わって,その物が人間の生活の向上につながる。あえて単純化すると,基礎科学は言葉を介して精神(並立できるものではないが,脳,心,自己,自分自身,考えている主体)にはたらきかけ,応用科学は物を介して肉体にはたらきかける。基礎科学の成果が派生的に応用科学に利用されて物を産みだすことはあるが,そもそも言葉が直接的に物質的豊かさをもたらすことはない。その意味では,ノーベル物理学賞受賞の小柴名誉教授が明言されているように,基礎科学は「役に立たない」のだ。しかし,物をつくることだけが社会に役立つというのは間違いだろう。私は,基礎科学の社会的意義を次のように考える。


 

(1) 基礎科学は,世界の成り立ちを解明することで私たちの精神を安定させ,日常生活を可能にする。


基礎科学の活動によって何がわかるかというと,世界がすこしわかる。世界は無生物と生物から成り,生物の中には動物としてのヒトが含まれる。世界を構成する個々の要素は相互に関係をなし,特にヒトは関係から成り立つ。その関係から成り立つ世界について,関係を解明することによって「なるべく客観的に知る」のが基礎科学であるのだから,私は意義としてはそれで十分ではないかと思う。しかし,これでは不満足な人が多いだろう。では,世界がわかることにどんな意義があるのだろうか。


上記提言に「学術はそれ自身が人々に潤いと喜びを与えるものであり,生活に不可欠な存在である」とある。私たちは世界の中で暮らすのだから,その世界の知識なしには,そこで安心して幸せに暮らすことはできない。誰もが必ず,自分の周りの世界を自分なりに都合よく解釈し,自分を納得させて生きているのだ。もし世界がわけのわからない説明のできないものであるならば,私たちは安定した精神を保てずに平安な日常生活を送ることはできないだろう。だから,人間は世界を説明するものを必要としてきたし,今も必要としている。


例を挙げると,上記提言の中にある「迷信」にしても,それによって人間が自分の周りの敵対的世界を理解し,自分を納得させ,納得することで安心するためのものだ。


また,多くの人たちは神の存在を信じて,神が世界を造り見守っていてくれるから人間は生きていけると,自分の世界を安定させている。


基礎科学は神と対立するものではないが,神の助けを借りずに世界が成立していることを示そうとする試みとして意義がある。例えば,天文学は,地球が誕生し,やがて死滅すること,死滅後その構成成分は新しい星を造るのにつかわれることを,そして,この地球が今後十億年は消滅しないことを教えてくれる。物理学は,物質がとても小さなものからできていて,その小さなものは確実に存在し,しかも法則性をもって相互に関係していることを教えてくれる。このように,基礎科学は神羅万象を検証可能な事実として明らかにし,法則性をみつけることによって,世界が秩序だったものであることを95%以上の確率で保証する。この保証を信じる人たちが増えていることも事実であり,この保証は応用科学の意義とは異なる基礎科学独自のものだ。


とはいっても,実生活とかけ離れたことに対して興味を持たない人も多いだろう。しかし,その人たちは,物理法則を知らなくても,ニュートリノに重量があることを知らなくても,この世界が説明できるものであること,その知をえるために基礎科学者が日夜努力してくれていることは知っている。それで安心できるし,実際にしているのだ。


基礎科学は物事の成り立ちを解明してきたが,その宿命として,少しわかったからといって探求をやめていいわけではない。探求の結果,世界の一部がわかると世界にはわからないことがたくさんあることがわかり,さらに探求することを繰り返し求められている。わからないことが見つかって,それをそのままにしておくことは世界を不安なものにする。だから,基礎科学は先に向かって進み続ける必要がある。そのため,一部の分野ではビックプロジェクトが登場することになって巨額の投資が必要になるのだが,それは必然的なことだ。


 


 (2) 基礎科学によって世界を正しく知ることを通し,人類は賢くなるかもしれない,そして幸せになるかもしれない。


もうすこし具体的な意義の例をあげてみる。


生態系という概念が生物学によって提唱されている。それについて人々は学校で学び,マスメディアから情報を得る。垂れ流しによる汚染や森林破壊がいけないことだと理解して,欲望を抑制する考えをもつようになってきた。


生物が進化の産物であることや動物たちの能力を知ることは,人をすこし謙虚にしてくれる。動物たちがとても賢く,ヒトが特別の能力をもつものではなく,ましてや万物の霊長であるとはいえないことがわかるからだ。


基礎科学は,日々,「私たちは自然界と自己について,ほとんどわかっていない」ことを実証し続けることで,私たちに「無知(あるいは不知)」であることの自覚を迫っている。その自覚は極めて難しいが,それは私たちをちょっと賢くしてくれて,幸せにしてくれる。


ヒトは知的好奇心を満足するように行動する。だから,子供たちだけでなく年配者でも,何か新しいことを知ると,それをうれしく思い,満足する。TV番組にクイズや旅行などの情報提供型のものが多いことは,それを求めている人たちがたくさんいるからだ。その情報が実際に役立つかといえば,ほとんどが役立たないだろう。それなのに,人間は新しいこと知らないことを知りたがる。世界を知ることは人を幸福な気分にするからだ。


神を信じる宗教家にとっても,基礎科学から得た知見は役に立っている。宗教家から見れば,基礎科学が明らかにしたことは神の叡智と創造物の素晴らしさを讃えるものであり,神の叡智の産物である世界に正しく向き合うことは非常に大切なことだ。だから,一部の宗教家は,基礎科学が神を肯定するものでもなく否定するものでもないことに気づき,それまでの対立的考え方を変えている。


他にも,いろいろな具体的成果と貢献があるだろう。基礎科学が私たちに提供してきたものは,あまりにも当たり前のものとして受け止められるかそんなこと知らなくても生活するには問題ないとして,その有難味がわからなくなっているのではないか。これは,基礎科学が衰退するときの怖ろしさを想像できないからだろう。


意義を続ける。


応用科学の技術は,欲望を叶えるような物をつくり出し(これが応用科学の役立ちだ),その物はより効率よく,より強力になることを求められる。新しいものができると,それが新たな欲望を生む。やがて欲望は暴走し,世界を破壊する。これは原子爆弾や環境破壊や貧富の格差などを考えればわかることだ。その欲望を抑制できるのは,正しい知識であり,知恵であり,それらからなる理性であることは,歴史と哲学が教えてくれている。ここで,基礎科学はすくなくても確実性の高い知識を与えてくれる。それなしに正しい判断は不可能だ。


多くの人間が正しい判断をすることで,もしかしたらこの先戦争が減るかもしれない,他の生物と共存できるかもしれない,謙虚になれるかもしれない。このうち1つのことがちょっとでも実現されるだけで,人類は今よりも幸せになれる。


また,人は正しく知ることによって,世界を好きになり,世界を愛するようになる,つまり,世界を肯定することができるようになるかもしれない (私は,美が世界を感性的に肯定するのに対して,科学の知は世界を理性的に肯定するのではないかと考えている)。


このようなことを書くと,「青くさい」と感じられる方が多いのではないか。しかし,「科学にはどんな意義があるのか」とか「科学は役に立つのですか」と否定的に問うことは,ソクラテスを青臭いとしたアテナイ市民となんら変っていないのではないかと思う。ソクラテスは,自分に死刑判決を下した陪審員たちに向かって「お金や名誉を求めるのではなく,魂を配慮する」ことの重要性を説いた。日本人は欧米人と比べてこの手の話は苦手なのだが(このブログに「目よ見るがいい」などという名前をつけた私が言うのはおこがましいのだが),魂を自己とすると,自己に配慮することの方が生活の中での欲望をかなえることより大切だということだ。この課題は古代アテネ市民だけではなく,今もすべての人間に突きつけられている。


現在,哲学を学ぶ機会は学校教育においても社会教育においてもなおざりになっているのではないだろうか。江戸時代の人々が寺子屋や私塾や藩校で賢人たちの「教え」を学習していて,その人たちが明治維新を成し遂げたことを考えれば,哲学的思考の重要性がわかる。基礎科学の意義を考えるには,そうした精神性を重視することが求められる。


 


(3) 基礎科学は好奇心によって駆動され,好奇心をかき立て,好奇心を育てる。


好奇心はヒトだけのものではなく,神経系が発達した多くの動物のものでもあることから,ヒトの好奇心は祖先種由来のものという可能性が高い。すなわち私たちの好奇心は遺伝的な要素の強い,進化のフィルターを通して形成された,生存に不可欠なものだろう。動物の好奇心はもともと「世界」に対するものであって,ヒトの好奇心とりわけ科学者の好奇心は世界に向いている。科学者は,その好奇心を全開にすることで世界を探求する。


基礎科学の探求を否定することは,好奇心を否定することにつながる。好奇心に,実生活に役立つものと役立たないものなどあるはずがない。研究にあたる当事者である技術者と科学者には,ともに好奇心と問題点を見つけ出す感性と探求を継続する強い実行力が求められる。だから,技術者は新しい物を造るだけでなくその物の本質を知ろうとする科学的探究心をもち,科学者は対象とする自然現象と関わる技術を想像する。科学者による新しい発見は技術者を刺激し,応用科学の発展につながる。刺激されるのは技術者ばかりではない。ノーベル賞受賞に国民が沸いたように,すべての人々にとって(特に若者にとって),基礎科学の成果は好奇心と感性と粘り強い取り組みの姿勢を肯定するものであり,勇気づけ,駆動するものだ。その意義は大きい。


さらに,自然に対する好奇心から,子どもたちは「なぜ」を問い,理科教育は正しい説明を提供する。「なぜ」がわかると,次の「なぜ」が生まれる。そして,子どもたちは,なぜの答えを求めることはあまりお金儲けに関わりそうではないが,面白そうだと思う。そうした好奇心を育て,探求しようとする動機付けになるという教育的意義は大きい。


 


(4) 基礎科学の成果を技術開発に応用する。


応用科学を担う技術者が新製品開発のために,基礎的な分野の研究をすることがある。例えば,医学では細胞のはたらきとしくみについての基礎的な研究が必要だ。このように,基礎科学と応用科学は緊密な関係にあって,基礎科学の成果は技術開発に応用されることを通して人々の物質的生活の向上につながっている。むしろ,応用科学のほとんどの成果は基礎科学の成果の上に成り立っているといっても過言ではない。基礎科学が盛んなほど応用科学が栄え,応用科学が栄えると基礎科学発展の余裕が生まれるという図式で,これは基礎科学系のノーベル賞受賞者が多い我が国によく当てはまる。基礎科学と応用科学はお互いのアクセルになっているのだ。


まったく応用科学に適用できないような基礎科学の研究もあるだろうが,中にはそうとも言い切れないものもあるだろう。ある基礎科学の研究成果とある応用科学の研究成果は必ずしも直接的に関連するとは限らないからだ。途中に別の研究成果が介在することもあるのではないか。具体例は思いつかないが,例えば,昆虫の研究が哺乳類の研究につながり,それが薬品開発につながるというようなことだ。この場合,昆虫の研究が役立たないとはいえないだろう。


基礎科学の方が先を行き過ぎているために,すぐには応用しきれない成果も多々ある。だから,いずれ役立つということになる。いずれ役立つかでは当てにならない,我慢できないというのであれば,歴史的に今までそうだったからこれからもそうだろうと答えるしかない。応用科学と基礎科学がともに栄える環境が,応用科学にとってとても大切であることを理解してほしい。


また,基礎科学の発展による経済的効果が見込まれるのはどうだろうか。スーパーカミオカンデの建設と運用だけでなく,他のビックプロジェクト(高エネルギー加速器,核融合研究,天体望遠鏡スバルなど)には多額の投資がされ,その経済効果は大きい。また,ビックプロジェクト等を推進することで,その推進に不可欠な先端技術の進歩が加速され,先端技術は末広がり的に他の役立つ技術に応用される。投資されたもの以上の経済的効果が期待されることもあるだろう。さらに,ビッグプロジェクトによって養成される人的資源の価値は計り知れない。


さらに,経済的観点からいうと技術開発は国際競争にさらされているのであって,このような競争には多角的視点と発想が求められる。基礎科学はそれらを可能にしていると同時に,それらを育むものとしての意義がある。


 


(5) 付け足しの3つ: 上記(1)(4)は提言にあるようなことだ。さらに,開き直り的な付け足しを3つ加える。


① 応用科学と基礎科学の両方が発展することで,国力が増し,国威につながり,外交の背景になり,外国人から敬意を払われることになる。それらは国民の自信の根拠ともなる。私の場合,旅行先の海外の人たちから一応尊重されることにもなって,身の安全と快適につながっている。


② 役立つことは人に対してだけが大切なのだろうか。樹木や動物に対して役立ってもいいのではないか。生態系内の生物は互いに一蓮托生なので,ほかの生物に役立つことはやがてヒトに役立つだろう。さらにいえば,川や海や山や原に役立ってもいいのではないか。それもやがてヒトに役立つだろう。


③ 世界には,物質的にすぐに役に立つことを求める人ばかりではなく,すぐには役立たないことを求める人もたくさんいる。ただ,後者の声が遠慮がちで小さいだけなのではないかと思う。
                                       完









 


                                         


 





                                         


 




旅行時に待ち歩く薬品類が年齢とともに増えている。数えると30品目を越えていた。薬があるから旅行ができるところがある。そんな私の携帯薬品類リストは,還暦を過ぎた方々の参考になるかもしれない。

高血圧 1:  血圧を下げる常備薬 (医師の処方薬。これは2箇所に分けていく。
片方を無くしたら,もう片方の錠剤を半分に割って飲むつもり。
基本的に他の大切な薬も分けて持っている)      

腰 (私はぎっくり腰持ちなので,旅行中,腰が痛くなったり,重く感じたりすることがある。そんな
ときには,薬品類とストレッチとで対応している。それでも,ネパールでプチギックリ腰になっ
て,2日間チトワン国立公園のロッジでベッドに転がっていた。エレファントライドもジープサ
ファリもができなかった)      
2: 筋肉の緊張をほぐす薬 (処方薬)    
3: 痛み止め (処方薬)
4: 痛み止め用胃薬 (処方薬)
5: 湿布薬 (処方薬)
6: 腰サポーター (飛行機搭乗時,長距離バスで移動する時,腰の具合が心配な時,
夜間冷える時の腹巻代わりに装着する)

膝 7: サポーター (しっかりした物。トレッキングで下山時間が長い時には必需)

足首 8: テーピング用テープ (1巻。未だに使用したことがない)

下半身うっ血 9: コンプレッションウェア (飛行機搭乗時に使用,効く気がする。
長期間の登山時にも使用,防寒着を兼ねる)

傷薬 10: 抗生剤軟膏 (市販薬)
11: バンドエイド (大き目のもの)

虫関連 (熱帯・亜熱帯・極地に行くとき,一番心配なのはカだ。対策には万全を講じなければならな
い。衣服は白地の長袖長ズボンを用いるようにしている)
12: 携帯蚊取り (以前は,火をつけた蚊取り線香を入れる携帯用容器を持ち歩いてい
たが,かさばるので最近は電動蚊取を持ち歩く。夕方から朝まで部屋やテン
トの中でつけっぱなしにする)
13: 予備の線香
14: 虫除けDEET(有効成分)15% (日本ではDEETの濃度が最高で15%のものしか購入
            できない。これでは数時間おきにスプレーしなければならないが,ついつい
            忘れてしまう。スプレーは肌だけでなく衣服にもしておくので,高価な衣服
            を着ない)
15: 虫除けDEET 50% (高濃度であれば,効果が高い上に長時間もつ。現地薬局で買う
            のだが,なかなか入手しにくいため,薬局を何か所も回ることがある。
            ロンドンでは高濃度のものが入手できるという。米国も同じだと思うので,
            行く機会があったらあらかじめ購入しておくことを勧める)
16: 痒み止め
17: マラリア予防薬 (日本では入手困難でしかも買うととても高いため,現地の薬局
            で買うようにしている。このところ熱帯の旅行先では必ず薬局を訪れて予防
            薬を買い,古い薬と入れ替えるようにしている)

風邪 18: マスク (多めに持っていく。乾季のサバンナや砂漠に入ると埃がひどいので,
            その時にも利用する。また,乾燥し過ぎの部屋で睡眠時に装着する)
19: 市販風邪薬

酔い止め 20: 酔い止め薬 (アネロン ニスキャップ:1日1回服用。クルージング用によい)

胃腸薬 (海外での食事を続けると胃腸の調子が悪くなることが多い。そのため,5種類の薬を持って
    いく)
21: 下剤
22: 正露丸
23: 胃腸薬
24: 整腸剤
25: 軟便剤 (処方薬)

日焼け 26: 日焼け止めクリーム
27: リップクリーム (唇に日焼け止めクリームを塗り,その上にリップクリームを
塗る)

痔 28: ポラギノール (便秘が続いて固い便が出た後に役立つことがある)

睡眠 29: 睡眠導入剤 (かかりつけ医に相談して処方してもらう。夜中に目が覚めて寝付け
ない時などに,錠剤を半分に割って飲む)

高山病 30: ダイヤモックス (かかりつけ医に処方してもらう。効くことを信じて飲む)

その他 31: ビタミン剤 (ビタミンB類。疲労回復と腰痛対策)
32: 包帯(持ってはいくが,いまだに使ったことがない)
33: 大人用尻拭き紙,流せるタイプ (テントや山小屋での生活だけでなく,海外では
トイレの紙に困ることが多い。一応トイレットペーパーロール1つを持って
いくのだが,濡れた尻拭き紙があるとよい。重くなるので枚数を考えて適当
数もつ)
34: 粉末飲料剤 (ギリシャ旅行のとき,連日気温40℃前後の街と遺跡を歩いた。
そのとき,水筒に粉末を溶かしたスポーツドリンクを入れて飲んでいた。食事
量が減っていた私にはよかった。粉末は1リットル用なので水筒1本には余る。
袋を開けた後に口を閉じるための接着テープ(ガムテープでもよい)があると
便利だ。接着テープは適当な長さを取って,芯なしで巻いて持ち歩く)

はじめまして、ブログ開設に挑戦してみることにしました。
主に、旅行記と鑑賞記を書いていくつもりです。

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