2か月ほど前から源氏物語を読み始めた。物語は小学館新編日本古典文学全集のもので全6巻ある。これを区立図書館で日に30分ほど読んでいる。今のところ挫けることなく読み続け,第1巻(桐壺から花宴)を読み終えた。驚いたことに,そこに出てくる女性たちの名前を覚えている。何に驚いたかといえば,記憶力低下が何十年も前から始まり,特に人の名前が覚えられない私だからだ。私は世界の長編古典をいくつか読んでいるが,みじめなもので,苦労して読んだはずの世界最長叙事詩「マーハバラータ」も,今は見たことがあるとしか言えない状態にある。それなのになぜ源氏物語では女性の名前だけでなくいきさつまでも覚えているのかといえば,面白いからだ。これまで私は日本の古典をほとんど読んでこなかった。古文は文法・単語と面倒だし,内容もピンと来ないから読めないものと端から諦めていた。しかし,今は源氏を読み始めて良かったと思っている。
全巻読み終えてから感想文を書くべきかもしれないが,書くことで考えをまとめ,さらには今後の読み方の幅を広くすることができるだろうから,こうして書くつもりになった。
(1) 感想の概要
まず,これまでの感想の概要を述べる。うちいくつかについては後述する。
① “光源氏災禍論”: 花宴までの光源氏は,酷い男に尽きる。光源氏は関わる女性にとって災禍であり,災禍を経験した彼女達がその不条理にどのように立ち向かい,いかにその後の人生を送るのかという話として源氏物語を読むことができる。
② “オペラ的な,災禍に立ち向かう平安女性群像論”: 物語の筋立てはオペラに似ている。オペラとしてみれば,主人公は光源氏ではなく,女性たちになる。
③ 源氏の身勝手な主張: 女が成長するには“あわれ”を知らなければならない。あわれを知るには好きものの私に抱かれるのが一番。私との恋で和歌が巧くなる。
④ 平安男性の思考がわかりにくい。
⑤ 物語中に絵の話が多い: 視覚芸術を意識している場面が多い。例えば,画論が帚木にある・少女の紫に画を見せて騙す・景色を表現する箇所が多い・月を愛でる・源氏の青海波の踊りは動画的だ。
⑥ 光源氏と貴人女性の命婦との関係: 光源氏は命婦(女官)を仲立ちに貴人女性に近づく。命婦たちの仲立ちするメリットに,彼女たちが光源氏と関係を持つことがあるだろう。
⑦ 源氏物語はいかようにでも解釈できる多様性をもつ物語: 古文をきちんと読めていない私の感想については,源氏愛好家の方々からすれば,“ふざけるな”だろうが,この物語が幾様もの解釈や読む楽しみを可能にしていることには異論ないだろう。
⑧ 私にも源氏物語が読める。
⑨ だから,源氏物語を推奨する。
(2) 上記の幾つかを述べる。
①について: 光源氏は女性たちにとって災禍である。
光源氏の酷い男ぶりが際立つ。桐壺から花宴までの八帖には,恋の対象となる主要な女性が9人いる。その中で,レイプが3回(空蝉・軒端の萩・朧月夜),不義密通2回(空蝉・藤壺中宮),10歳の少女拉致監禁飼育1回(紫)ある。朧月夜の場合,光源氏は権力をかさに着て「騒いで他の人が来たとしても,私の場合通用しません」などという。
その性交行脚を決行する際の状況がひどい。例えば夕顔の場合,光源氏は自分にとって最愛の乳母の見舞いに来ていながら,乳母の息子を使って夕顔にちょっかいを出している。父帝の后である藤壺に恋い焦がれながら他の女性に手を出すのはしょっちゅうだ。その藤壺に焦がれるのは彼女が光源氏の母の故桐壺女御に生き写しだからであり,藤壺の姪に当たる紫の君を拉致監禁飼育するのは彼女が藤壺に似ているからだ。紫は代わりの代わりとなってしまう。つまり,光源氏にとっては藤壺と紫は,心の交流を求めない“物”として扱われている。
だから,何人もの女性にとって,光源氏は不条理な災禍のようなものだ。この不条理こそが悲劇の源泉であるとしたのはギリシャ悲劇だ。どんなに正しくとも,自分に因果がなくても,英雄や高貴な女性たちは悲しみの極に陥る。そんなわけで,私には古代世界のギリシャと日本で不幸のあり方が似ているように思える。不条理に出会った女性たちがどう生きたのかを源氏物語の主題として考えると,光源氏は災禍を振りまくだけの引き回し役となる。
花宴後の全体の粗筋をみると,光源氏が,成長して政治世界で権力闘争をし,また,孤独に苦しみ,勝手極まりないがやがて自分の悪行を悔いるらしい。凄い物語ではないか。今後の進展が楽しみだ。
②について: 災禍に対して平安女性はいかに対応するかという女性群像論だ。
源氏物語はオペラの筋立てに似ている。ほとんどの古典オペラでは主役テノールは軽薄で不実だが美しい声の持ち主であり,深い情感を込めて歌うことができる。テノールに翻弄されるソプラノ(ヒロイン)は一途であり,不実なテノールを攻めることなく恋に生きる。観客は,テノールが軽薄でありながら見栄えよく,その歌が心に届くほど,ソプラノの歌に涙する。これが源氏物語筋立てとそっくりだ。となると,これは女性主役の物語ということだ。当時の女性読者の需要に従ったのだろう。平安貴族の女性達はさまざまな男性経験を強いられ,それぞれがその体験を自己肯定のために消化しなければならなかった。源氏物語の女性達は光源氏という災禍を経て,また,一部の女性達には憧れの光る君との恋を経て自分の在り方をそれぞれ決める。その多様さが読者となる女性達の共感を呼び,あるいは参考になったのではないか。
④について: 私にとって半世紀ぶりの古文だから,わからない箇所が多いのは当然として,わからないのは,単語や文法などだけではない。登場人物たちの思考があまりにも理解しがたい。とくに平安超上流男子貴族のそれだ。例えば,光源氏の隙だらけのアバンチュール,異様な女性遍歴,彼が自分自身を納得させる思考(自己の肯定あるいは欺瞞),頭の中将の女性の分類などがある。それと比べると,下流の男性貴族の考え方はわからないでもない。上流階級の男の恋愛観は一夫多妻の時代だから,今と異なるのは当然として,葵の上や六条御息所の嫉妬や心の動きを見ると,女性のそれは一途であり,嫉妬し,また,まじめな女性ほど嫉妬する自分に悩み,光源氏に誠実さを求めるなど,どうも今とさほど違っていない。
⑥について: 光源氏が父帝の后である藤壺中宮と関係を持てたのは命婦(女官)がいたからだ。命婦は源氏の一途な思いを知って仲立ちをしたと式部はいうが,それだけだろうか。仲立ちはあまりにもリスクが大きい反面,そのメリットが見えない。だから,文中には書かれていないメリットは源氏と関係を持つことではないか――おそらく平安時代の読者には自明のことだったのだろうと想像する。さらに想像を膨らませて一般化すると,通例,高貴な女性に近づくために,平安貴公子たちは命婦たちとの関係を持った。高貴な女性には言い寄る男がいるが,おつきの女性たちにはどうだろうかと考えると,彼女らも性的欲求を処理しなければならないから,男の従者たちと関係したこともあろうが,男とまず関係したと考える方が納得できる。その男たち(光源氏や頭の中将)は56歳の老女(源典侍)とも関係してはばからないのだから,身分が下とはいえ若い命婦との関係を楽しんでおかしくない。さらには,命婦たちの主に対する悪意が感じられる箇所もあって面白い。読者が女官の場合(多かったに違いない),彼女達にとっても源氏物語の多様な恋は自分達の経験と照らし合わせることができ,想像を膨らますことができたため,人気があったのではないか。
⑧について: 高校古文の知識があれば,この物語誰にでも楽しめる。小学館の源氏物語は1ページが3段組になっていて,上段に単語解説,中段に原文,下段に現代語訳がある。私は原文と現代語訳を読みながら読み進めている。古典を読む場合,私は途中で諦めないことを是としている。決して良い読み方ではないのだが,わからない所があれば読み飛ばす,見るだけでもいいから先に進むという方針で,じっくり読むのを放棄している。するとどんな古典でも我慢すれば最後まで読み(見)通せる。むろん理解は浅くなるが。